崇徳天皇(複雑な人間関係と院政(いんせい)の中で誕生した悲運の天皇)

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 天皇が譲位して上皇(じょうこう)(出家すれば法皇(ほうおう))となり、実権を持ったまま政治を行うことを院政といいます。
 1086年白河天皇は34歳で譲位し、7歳の息子を天皇(堀河天皇)にします。堀河天皇が29歳で早死すると、白河上皇は堀河天皇の5歳の息子を天皇(鳥羽(とば)天皇)として、政治の実権は白河院が保持して、院政が始まります。
 鳥羽天皇が16歳の時、白河上皇が養女として溺愛(できあい)していた藤原璋子(ふじわらのしょうし)(18歳)と結婚させ、その間に誕生したのが後の崇徳天皇です。鳥羽天皇が20歳になると、白河院は天皇を譲位させ、5歳の息子を天皇の位につけました。
 長い間、政治の中心にいた白河院(天皇在位14年、院政43年)も1129年、77歳で死去します。時に、鳥羽院27歳、崇徳天皇11歳でした。
 政治の実権は鳥羽院が保持し、崇徳天皇が22歳になると、鳥羽院は崇徳天皇を退位させて、鳥羽院と美福門院(びふくもんいん)の間に出来た3歳の幼帝、近衛天皇を位につけます。崇徳天皇は実権なき上皇となり、和歌の世界に没頭して、久安百首(きゅうあんひゃくしゅ)を作成し、「調花和歌集(ちょうかわかしゅう)」「千載和歌集(せんざいわかしゅう)」を選集しました。

[皇位継承と院政系図]