保元(ほうげん)の乱で敗北し讃岐に配流(はいる)される

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 異母弟の近衛天皇が若くして死去した時に、崇徳天皇は再度、自分が天皇になるか、息子の重仁親王を天皇にしたいと願っていました。近衛天皇の母が「崇徳院がのろいを掛けたために、近衛が亡くなった。」と言い、それを信じた父の鳥羽院は崇徳院の実弟、後白河天皇を即位させました。鳥羽院と、崇徳院は決定的に不仲となりました。翌年の1156年(保元元年)5月鳥羽院が重病にかかり、7月2日申(さる)の刻(こく)(午後4時頃)崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面できなかったそうです。(「古事談」によれば、鳥羽院は自分の遺体を崇徳院に見せないようにと言い残したという。)
 朝廷内は実弟の後白河天皇に従う者と、崇徳院に同情する者と2つに割れて、公家の藤原摂関家(せっかんけ)も兄弟が割れて不穏(ふおん)な空気でした。それを警固(けいご)する武士団も2つに割れ、源氏平氏とも天皇方につくもの(源義朝、平清盛)、院方につくもの(源為義、源為朝、平忠正)で親子、兄弟がそれぞれの陣営に分かれて一触即発でした。
 7月11日未明、後白河天皇側が夜襲(やしゅう)をかけて3時間の争いで崇徳院側は壊滅しました。これが保元の乱です。
 敗れた崇徳院は武士数十人が囲んで網代車(あじろくるま)に乗せられ、京都の鳥羽より船で讃岐の国に下りました。崇徳院その時38歳、その後二度と京の地を踏むことなく8年後、1164年(長寛2年)46歳で死去します。