配流先、讃岐での崇徳院

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 坂出市府中町に「讃岐国司庁跡」がありますが、その南の小高い岡に鼓岡(つづみがおか)神社があります。土地の豪族、綾高遠(あやたかとお)が崇徳院の警固役(けいごやく)となり、崇徳院はその屋敷に住んでいたのですが、高遠が鼓岡神社の中に木丸御所(きのまるごしょ)を造り、そこに移り住み、和歌を作ったり、仏教に傾倒して写経したりして過ごしたそうです。

白峰宮(明の宮)

 滝宮を流れる綾川は1965年(昭和40年)に府中ダムが出来るまでは清流が、小岩、大岩、奇岩の間を流れ、瀬があり、渕があり、県下でも有名な渓谷美の景勝地でした。崇徳院もこの地を訪れて綾川の流れを見て、都を思い、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末にあわむとぞ思う」と詠んだのではないでしょうか。

綾川

 (意味) 川の瀬の流れが速いので、岩にせき止められた急流が二方に分かれても、また先で一つに合わさるように、今二人が別れてもきっと将来一緒になろうと思う。
 崇徳院は極楽往生(ごくらくおうじょう)と自分のために戦って亡くなった人々の霊を慰(なぐさ)めるために、五部大乗経(ごぶだいじょうきょう)(法華経(ほっけきょう)、華厳経(けごんきょう)、涅槃経(ねはんきょう)、大集経(だいじゅうきょう)、般若経(はんにゃきょう))の写本作りに専念しました。完成した五巻の経典(きょうてん)を弟の後白河天皇に送り、京の仏閣(ぶっかく)に収めてほしいと伝えたが、朝廷はこれを拒否し、送り返してきました。
 朝廷のこの処置を怨み、それ以来木丸御所に閉じこもり、爪と髪は伸び放題で、「日本国の大魔炎となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と誓文(せいぶん)を書き、悲憤の中、46歳の生涯を閉じます。
 死後20日間、近くの森から毎夜神光が光り、二条天皇の命により、坂出五色台の白峰で荼毘(だび)に付され埋葬されます。現在の白峰御陵です。