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 保元の乱は歴史上初めて、武士の武力で権力争いの決着がついた出来事であり、武士勢力が台頭するきっかけでした。保元の乱の3年後、1159年(平治元年)源義朝(みなもとのよしとも)と平清盛(たいらのきよもり)が争い、平治の乱が起こり、平清盛が勝利し、平家一門全盛の世となり、「平家にあらずんば人にあらず」と云われる程でした。「おごれる平氏久しからず」で源義朝の三男、源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆で挙兵し、源平の合戦が続きます。源氏が勝利して、平家一門は滅亡し、1192年(建久3年)源頼朝は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、鎌倉幕府が始まります。それ以降、日本の政治の実権は武士が担(にな)うことになります。
 平安時代は現代のように科学が発達していなかったため、天変地異(てんぺんちい)、不幸不吉(ふこうふきつ)なことが起こると、誰かの怨霊(おんりょう)ではないかと恐れられました。平将門(たいらのまさかど)、菅原道真、崇徳天皇が三大怨霊といわれて、恐れられ、その祟(たた)りがないように神として祭って霊を慰めてきました。
・明治天皇は1868年(慶応4年)、即位してまもなく、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で官軍が勝利することを願って勅使(ちょくし)を讃岐に遣(つか)わし崇徳天皇の御霊(みたま)を京都に帰還させて白峰神社を創建しました。
・昭和天皇は崇徳上皇八百年祭に当たる1964年(昭和39年)に坂出市五色台にある白峰御陵に勅使を遣わせて式年祭を行っています。

[崇徳院]