菅公が讃岐の守として居た888年(仁和4年)3月頃から全く雨が降らず、5月に入ってもさらに無く、池や川はことごとく枯れ、砂煙(すなけむり)がたつような有様で、田植えの準備も出来ず、百姓の辛苦(しんく)は大変なものでした。
滝宮天満宮への行列入場
そこで菅公は、讃岐の国の諸寺に命じて、中国伝来の秘法の大般若経(だいはんにゃきょう)を読ませ、請雨法(こううほう)を行わせましたが雨は降りませんでした。ついに、菅公ご自身が5月6日、身命を捧げて城山神社に篭(こも)り、七日七夜(なぬかななや)、降雨を祈願しました。(城山神祭文、19頁)農民たちは、死装束(しにしょうぞく)でこの地に集まり、今か今かと降雨を待ちました。
ついにその雨乞いの満願の日、菅公の至誠(しせい)が神に通じたのか、天たちまちに曇り、雷鳴(らいめい)四方(しほう)に轟(とどろ)き、大雨が三昼夜にわたり降り続きました。枯れかかった作物は蘇(よみがえ)り、農民はわれを忘れて喜び滝宮神社前に集まりました。そして、神に感謝し、菅公の徳をたたえて踊りました。
現在の踊りは、その後300年ほど経った鎌倉時代初期に、法然上人がこの踊りを見て、振り付けを新しくし、「大声で念仏を唱えながら踊りなさい。」と教えられたと伝えられています。