念仏踊りの変遷

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 昔から日照りで苦しむ讃岐の国は、域内すべての所で、雨乞い踊りがされてきました。
 その中で、滝宮牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と滝宮天満宮に奉納されている念仏踊りには、歴史的な重要性が有ります。その証拠として、江戸時代の初め、1668年(慶安元年)に初代高松藩主松平頼重公が、この踊りの由来を調べられ、たいへん由緒(ゆいしょ)あるものだと分かりました。その為に、お殿様から踊り場に立てる制札(せいさつ)がくだされました。そして、この踊りの扶持米(ふちまい)70石(こく)が毎年寄進されていました。その時の制札が今も滝宮天満宮に所蔵されていて、昭和51年に町指定の文化財となっています。

初代高松藩主から下付された制札

 毎年奉納されている滝宮念仏踊りは、干支(えと)の順により地域が分けられ奉納されています。子年(ねどし)は阿野郡南(あやぐんみなみ)、丑年(うしどし)は阿野郡北(あやぐんきた)と那珂郡(なかぐん)、寅年(とらどし)は鵜足郡(うたぐん)と三年一巡で奉納されていました。これが江戸時代から近世にかけての奉納形態でした。鎌倉時代・室町時代の記録はありませんが、この形態は変化していてもずっと継続してきていたと思われます。
 阿野郡南(あやぐんみなみ)は南条念仏と言い、途中から北村念仏とも言われて来て、今私たちの滝宮念仏となっています。
 阿野郡北(あやぐんきた)は北条念仏と言い、坂出市の旧松山村を中心にしたもので、平成6年に地元で踊ったのを最後に今は休止しています。
 那珂郡(なかぐん)は七ヶ(ひちか)念仏と言い、まんのう町真野と七箇(ひちか)一帯で行なわれていましたが、今は無くなっています。
 鵜足郡(うたぐん)は坂本念仏と言い、丸亀市の旧飯山町で伝承されています。現在も昔取り決めた干支(えと)の当たり年の3年ごとに奉納に来ています。
 歴史と伝統のある滝宮念仏踊りにも困難な時代もありました。明治時代の初めに出された神仏分離令によって、歴史あるこの踊りも一旦は廃止され、途絶えました。その後、地域の働きかけで復活しましたが、他郡からの奉納は途絶えがちになり、受難続きでした。他郡から来ない時は、地元の旧滝宮村の北村組などによってのみ細々と奉納してきた年月が続きました。
 その後、現在の奉納形態になったのは、昭和24年からです。阿野郡南(あやぐんみなみ)の踊り組を構成していた旧11ヶ村をそれぞれ独立した組として、3組ずつが奉納することに改めました。更に昭和43年からは、5年に1度は総踊りとして全組が出るようになり現在に至っています。そして、昭和52年5月17日に文化庁により国の「重要無形文化財」の指定を受けました。これにより、国などの行政機関から物心両面の支援も来るようになり、歴史と伝統あるこの踊りが毎年、綾川町の地域をあげて、賑(にぎ)やかに、古式豊かに行われるようになりました。
 奉納日は旧暦7月25日でしたが、子踊りなどの関係もあって、夏休み中にある新暦8月25日になっています。