法然上人像
上人は、一心に「南無阿弥陀仏」を唱えることで、すべての者が救われて、浄土往生できると言う専修念仏の法門「浄土宗」を開きました。上人が生きた平安時代の末から鎌倉時代にかけては、戦乱と天災が相次ぎ、政治・社会不安の中、民衆はひたすらに仏教に救済を求めましたが、旧仏教はその期待に応えられませんでした。一方、上人の平易な教えは庶民、婦人、貴族、学僧などの心をつかんで信者は激増しました。そうなると、旧仏教側の南都、北嶺・比叡山(ひえいざん)などの反発や批判・攻撃も激しくなりました。
その様な時に、門弟が問題を起こしました。その罪が師の上人や親鸞にも及び、上人は、土佐(高知)に、親鸞は北国にながされることになりました。上人の帰依者(きえしゃ)である関白九条兼実(くじょうかねざね)公の計(はか)らいで、土佐より都に近い九条家の所領地の讃岐に変更されました。年は75歳でした。出立の時上人は、「京を離れた遠くの人々にも説法出来る。」言われ、喜んで讃岐の国に来られたと伝えられています。
上人は、小松の庄の生福寺(まんのう町羽間に有ったとされ、後に仏生山に移転して、仏生山法然寺となった)に起居して、讃岐の国内を巡(めぐ)り念仏を説いて廻りました。綾川町内にも、法然上人念仏修行の石や説法所にした西権現の憲正寺(けんしょうじ)・北条池(ほうじょういけ)の畔(ほとり)の法然寺(ほうねんじ)などの史跡が残っています。