干ばつと水利

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 穏やかな気候と美しい風景に恵まれ、「玉藻(たまも)よし讃岐の国」と古歌に歌われた讃岐は、年間の平均降雨量は1200mm(ミリ)内外と少なく、地勢勾配(こうばい)が急なため降雨は一気に海に流出し、常水(じょうすい)の河川もありません。平安時代に讃岐の国司を努めた菅原道真も、「南郡の旱災(かんさい)あずかる所なし」(菅家文草)「私の治める南海の讃岐の干ばつは、どうにも手の打ち様がない」と、その厳しさを嘆(なげ)いています。
 高松藩記に「讃岐の国は南は連山、北は海にて地勢北下がり故、常水の河一つも之無く、旱歳(ひでりどし)には甚だ難儀(なんぎ)に付き、坡地(はち)(ため池)を多く築き候(そうらい)て、冬春の雨水を貯め候(そうろう)を専(もっぱ)らとし」と、あるように、江戸時代には、藩も農民も生計の基盤を稲作に求めたため、新田開発のためにため池の建設が盛んになりました。
 また、ため池とともに建設されたのが掛井手(かけいで)(用水路)です。ため池への取水のため、河川に設置した井関(いせき)や掛井出の水利権や取水権を主張する争いは絶えず、干ばつの年には血の雨を降らす水喧嘩(みずけんか)も珍しくありませんでした。用水を開発するということは、当時の技術では容易なことではなく、水資源の確保は重要な課題でありました。このため、農民はもとより時の為政者(いせいしゃ)たちも、常に干ばつに悩まされていたのです。