久保太郎右衛門の萱原用水
困難の一つは測量であり、鞍掛(くらかけ)山の南西麓(ふもと)を進み、北、山田下を経て山田上境の松熊(まつくま)池、徳利(とっくり)池を経て山田上正末(まさすえ)の取水予定地までの測量だけで3年近くもかかりました。
測量(土地の高低差を調べる)といっても、元禄(げんろく)10年頃のことであり、測量器具も今のように十分ではありません。言い伝えによると、太郎右衛門は、夜間に村人とともに樹木や雑草の生い茂った山麓(さんろく)に分け入り、ろうそくの火を見渡すことによって地面の高低を測量したということです。津森 明(高松短期大学教授 讃岐のため池誌 編さん委員)によれば、他村の土地に人を歩かせての測量は、実に不思議な行動であり、また、新池(丸亀市三条町)を造る時にも測量でろうそくの火を使ったという言われがあり、やり方があまりにも似ているので、この話は尾ひれのついた伝承であろうと述べています。