工事許可の嘆願

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 困難の二つは、工事許可にかかわることであり、高松藩に萱原用水の工事の許可を願い出ましたが、距離が長いことや高低差が十分でないことなどから許されませんでした。
 藩の言い分は、藩財政が苦しい上に予定地域は岩石が多くて掘削(くっさく)不可能と言う理由で不許可としたのです。杉村 重信 綾南町誌編さん委員の試算によれば、最難関であった高鳶峠(たかとびとうげ)で取り除いた掘削土量は、7000t(トン)もありました。
 もう一つには、太郎右衛門の企画が余りに長く、工事の完成を危ぶんだと言われています。また、水利にからんだ他村の建設反対運動も影響したかもしれません。
 かろうじて許された一部の工事(山田村野田原より北村皿回り山走り水掛井出長さ三千間約5.4km)は、計画の下流部分だけでした。水源が鞍掛山の走水(はしりみず)だけでは水量が足らず、水は造った水路の底に消えてしまいました。
 そこで、太郎右衛門は、1706年7月12日に高松藩大老(たいろう)大久保主計(かずえ)に直訴(じきそ)をします。当時、農民が藩に直接訴えることは禁止されていたので、このきまりをやぶった太郎右衛門は、半年の間牢屋に入れられます。獄中(ごくちゅう)にあっても太郎右衛門の熱意は変わらず、村人たちもこれを黙視(もくし)せず、たびたび郡役所へ工事許可の嘆願(たんがん)をかさねました。
 水路の通過する関係村は自分の村の池の溜(たま)りが悪くなる、と支障を申し立てて建設に反対しました。そこで、萱原村では「御村池に水十分仕り候節、御断りを以て当村懸井出(かけいで)仕掛け仕り候、水溜りこれ無きうちは、無断仕掛け取り申すまじく候」と、関係村々の池が満水した後で取水する旨の仕手形(誓約書)を入れて、漸(ようや)く工事を着工することができたのです。
 この時代は、新田開発とため池の築造がどんどんなされ、水利開発においては、築造技術や建設費の問題、藩普請、自普請で駆り出される農民の労役の問題、水利の利害関係の問題など数多くの困難をともないました。