工事の許可と期間

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 萱原村を上げての嘆願は、ついに藩を動かしました。翌年の1月11日に「このたびの萱原村掛井手願いのこと、村方百姓共露命(むらかたひゃくしょうともろめい)お救いのため、格別のお慈悲をもって掘削あるべき旨、大老より仰せ出され候。よって早々ご普請に相成るべき旨(むね)、心得申すべく候。」と許可の沙汰が出され、全区間の工事が許されました。1707年(宝永4年)ついに、綾川の水が萱原村の大羽茂池まで引け、灌漑(かんがい)に成功します。工事の許可が出た後、わずか70日間という短い期間で萱原用水が完成した事実から、この用水がどれほど村人から必要とされ、待ち望まれていたかが伺(うかが)われます。
 当時の技術から考えると、その作業は筆舌(ひつぜつ)に尽くせぬ難作業であり、藩からの費用の負担もあり、工事の指揮は普請奉行が来たものと考えられます。また、長い水路であるため、水漏れもあちらこちらで起こります。工事完成の後も、太郎右衛門は関係農民に対して金銭や敬意を怠らず配慮し、自分の財産を投げ売って、何度も手直しの工事を続けました。

[久保太郎右衛門が作った萱原用水と現在の萱原用水]

 萱原用水は、今日の萱原、滝宮、陶の地域の水田250haの用水源となっています。
 当時の萱原地区の田は18ha程で、1768年頃には42haに広がり、現在にいたっています。
(1ha=100m×100m=10,000m2)

①現在の取水地 山田上正末(まさすえ)

 

②現在の大羽茂(おおはも)池