太郎右衛門と大久保神社

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 太郎右衛門は、萱原用水の難工事の完成は何も自分の力だけではなく、神様の加護と大久保飛騨(ひだ)の恩義によるものとして、その年十月一日同村の農民6人とともに「作り初穂餅米一俵」を持参して大久保大老の屋敷にお礼のため参上しました。さらに翌年正月二日にも年頭お礼のため参上しました。以来、萱原村の庄屋が大久保邸へ年頭のお礼に参上することは百余年の長い慣例として続きました。また、大羽茂池の池畔(いけばた)に一宇(いちう)を建てて大久保大明神として祀りました。この祠は、昭和43年に彼の生家近くの八坂神社境内に移されます。
 萱原用水完成の4年後、1711年(正徳元年)7月23日、私財を投げ打った太郎右衛門は工事中の過労がたたったのか、体調を崩して床に伏すようになり、36才という若さで亡くなります。村人は、1732年、太郎右衛門の霊を大久保神社に共に祀りました。

③ 太郎右衛門のお墓


④ 大久保神社

 久保太郎右衛門の子孫(久保利三郎(としさぶろう))は、明治に屯田兵(とんでんへい)として北海道秩父別(ちっぷべつ)町に移り住み、農業を始めました。このことが縁となって、昭和54年9月8日に綾川町(旧綾南町)と秩父別町は姉妹町となり、現在に至るまで毎年交流を続けています。
 また、久保太郎右衛門の業績により、萱の原が美田となり、その恩恵を受けた田井(たい)、陶畑(すえばたけ)の自治会の人々と萱原用水の関係者は、久保太郎右衛門の子孫が当地を去ったその後も、久保太郎右衛門の命日に近い日曜日に墓前に集まり、菩提寺である妙円寺の住職を招いて法要を行っています。300年も前に亡くなった恩人の偉業に感謝し、現在に至るまで、毎年の法要が子々孫々受け継がれ、続いているということは特筆すべきことです。
 各時代においても水路の改修工事が施(ほどこ)されます。1915年(大正4年)には、今の滝宮小学校の横を通り、32号バイパスの下を通って萱原下に届く用水が整備され、1966年(昭和41年)には、全面的に改修工事が行われました。
 萱原用水のお陰で広がり続けてきた田は、現在では、道路や住宅の建設で、かなり少なくなってきています。