起源

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 水車は、610年(推古18年)高麗(こうらい)から来た僧によって造られたと伝えられています。
 また、淳和天皇(じゅんなてんのう)の829年(天長6年)には田畑の灌漑(かんがい)に水車をつくることが奨励(しょうれい)されました。
 天正年間、豊臣秀吉の時代までは庶民の主食は、大麦や雑穀にわずかの米をまぜて粥(かゆ)にしたものでした。自家用としての精米、精麦の消費量はかぎられたもので、精米、精麦のほとんどが人力(足踏み式)でおこなわれていました。水車は、白米を大量に使う、造り酒屋や社寺用にもっぱら利用されていて、庶民には縁遠いもので、この間、水車はほとんど増えていません。滝宮の水車で最も古くからあったといわれている中車も龍燈院綾川寺の寺車で、滝宮神社随神門前(ずいしんもんまえ)の玉垣(1863年建立)の奉献者の中に「中車力蔵利兵衛(なかぐるまりきぞうりへい)」の名があります。
 水車が営業用として利用され始めるのは、江戸時代中期(元禄年間)からで、この頃から製粉、精米、製材、綿くり、搾油(さくゆ)、砂糖きび締めなどに使われ始めました。本格的に庶民の生活に定着したのは、江戸時代後期(安政年間)からのようです。最も多く水車が造られたのは、明治初期から中期でした。
 比較的水量に恵まれた綾川水系には、明治10年ごろ23か所の水車があり、滝宮だけで6か所ありましたが、粉ひき水車が主流でした。
 川の流れの落差がすくない滝宮付近では、水を水車の中ほどから下にあてる、胸掛(むねか)け水車や、下掛(したか)け水車であり、直径5mちかくある大きい水車でした。
 
滝宮の水車一覧
屋号所在地営業期間営業内容
吉野屋車(よしのやくるま)北字下川原742-1明治初期~昭和30年製粉・精米・精麦
奥村車(おくむらぐるま)北35安政年間~昭和33年製粉・精米・精麦・製麺
上車(かみぐるま)滝宮字川西1569-12文久年間~昭和39年製粉・精米・精麦・製麺
中車(なかぐるま)滝宮1342元禄年間~昭和40年製粉・精米・精麦・製麺
新車(しんぐるま)滝宮字松崎の下2390明治初期~大正元年製粉・精米・精麦
堂床車(どうとこくるま)滝宮字宮の北6明治初期~昭和35年製粉・精米・精麦




水車の型式