水車業者は近隣の農家を回って、小麦を買い入れたり、預かったりして、倉庫に積み込みます。夏は穀象虫(こくぞうむし)やネズミの駆除をするため、戸や壁の隙間(すきま)を目張りして、天井近くまで高く積み重ねた俵によじ登って薬剤を使いました。
用水ざらえや、横井堰(よこいせき)の補修など力仕事が多いのでいつも人を雇う必要があり、経営は難しいものでした。しかし水車業は地域の人の農産物の加工場として地元と密接な関係をもち、水車業の繁栄は、地元農家の繁栄を示すバロメーターであり、食生活(ご飯、餅、団子、うどん)に欠かせない業種でした。
太平洋戦争が始まると、穀物の国家管理が次第に強くなり、昭和17年の食糧管理法によって食料全体の統制が強化され、小麦の買い付けも自由にできなくなり苦しい経営を強いられました。
終戦後の、ひどい食糧不足の時代には、戦前よりはるかに多く製粉され、琴平や高松などの遠方からも小麦粉の買い付けに、不便な田舎の水車へも客が大勢押しかけてきましたので、数年間は経営状況もよくなりました。
しかし昭和27年ごろになると、戦後復興も次第に進み、電力需給も回復したので、交通至便なところに動力にモーターを取り入れた大規模な製粉精米所ができました。また家庭用精米機の農家への普及により、川沿いの交通不便な位置にある水車はどこも、経営が次第に難しくなりました。
さらに、昭和37、38年の麦収穫時の長雨は、大きな被害をもたらし、裏作に麦を栽培する農家の意欲を失わせることになり、麦栽培農家は激減しました。
そして昭和37年、府中ダムの建設の始まりによって、綾川沿いにあった、滝宮の水車はその多くが、湖底に水没することになり、廃業しました。昔の藁屋根(わらやね)の水車小屋と水車のまわるのどかな風景が、清流綾川のほとりから消えたのはさびしい気がします。
今日のように、産業の動力源として、モーターや、エンジンがあらゆるところに導入されるまでの長い期間、唯一の動力源として利用されてきた水車の役割は大変大きいものでした。