菅原道真が九州大宰府で悲憤の中で亡くなってから数年後、京で疫病(えきびょう)が流行し、その上、旱魃(かんばつ)で不作の年が続きました。909年(延喜9年、道真の死後6年)道真を九州に流し、朝廷のただ一人の実力者として意のままに政治を行っていた藤原時平が39歳の働き盛りで亡くなりました。
これらのことは道真のたたりで、道真が怨霊(おんりょう)となって復讐しているのではないかとの噂(うわさ)が人々の間で広まり始めました。道真の左遷(させん)で時平に協力したと思われる人達(中納言定国(ちゅうなごんさだくに)、蔵人頭(くろうどのとう)藤原菅根(すがね)、大納言源光(みなもとのひかる))も次々と変死し、時平の子どもたちも若くして亡くなります。923年(延長元年)3月、醍醐天皇の皇子、皇太子保明(やすあきら)親王(21歳)が急逝(きゅうせい)します。皇太子の急逝で怨霊に対する恐れはピークに達し、朝廷はすぐさま翌月の4月に道真を左遷した詔(みことのり)を破棄し、道真を元の右大臣にもどし正二位(もとは従二位)に叙(じょ)します。また道真の4人の息子たちももとの官に復し、京に帰ってきました。
しかし、不幸はまだ続きます。925年(延長3年)次の皇太子慶頼(よしより)親王(保明親王の子)もわずか5歳で亡くなります。930年(延長8年)6月26日、決定的事件が起きます。この年は雨が降らず、その日は宮中に集まって雨乞いの相談をしていました。午後1時頃、にわかに異様な雲が宮中に湧き出てきて「この分だと一雨来そうで雨乞いしなくて良さそう…」と言っていたその時、大きな雷鳴が轟(とどろ)きわたり、雷が清涼殿(せいりょうでん)(宮中の儀式を執り行うところ)を直撃しました。
大納言藤原清貴、衣服が焼け胸が裂けて即死、平希世(たいらのときよ)は、顔を焼き、醍醐天皇はそのショックで倒れ、それ以来病で寝込んでしまい、9月22日に8歳の寛明皇太子(朱雀天皇)に譲位(じょうい)しその7日後に死去します。
(藤原一門で時平の弟、忠平は道真の左遷に関わっておらず道真と親交があり、忠平の妻は道真の姪(めい)でもあったので、忠平の身には不幸なことが起こらず、時平の死後、醍醐帝及び朱雀帝(すざくてい)の政務の中心的立場に立ち、忠平の家系が藤原の栄華(えいが)、摂関政治(せっかんせいじ)(天皇に代わって摂政・関白が政治をする)の中心となっていきます。)
科学が発達していなかった当時の人々は道真の怨霊が雷となって天から降りてきたと信じ、怨霊を鎮(しず)めるために神として祭られるようになり、987年(永延元年)、天皇の命令で道真を神として祭る祭礼が行われ「天満宮天神」となりました。
993年(正暦4年)5月朝廷は道真に正一位、左大臣を贈りましたが、それでも神霊(しんれい)となった道真は心を安んじていないと思われて、同年10月に重ねて太政大臣(だじょうだいじん)を贈りました。当時の人々にとって祟(たた)りをなすと信じられた「天満天神」への恐れがいかに大きかったかの表れです。
道真は生前学問に秀で、詩人歌人であり官吏として清廉潔白(せいれんけっぱく)で不正を嫌い、死後に冤罪(えんざい)を晴らされたことなど、多彩な人でしたので全国に祭られている天満宮はそれぞれ特徴があるようです。