菅原道真は4年間(886~890)国司として讃岐に滞在しました。道真は京では文章博士(もんじょうはかせ)として日本一の知識人であり、京から離れた地方で話し相手になる友も少なかったと思われます。龍燈院綾川寺の住職で空澄上人(くうちょうしょうにん)という名僧がいるということを知り、道真が会いに行きました。その時に詠んだ漢詩が「菅家文草(かんけぶんそう)」にのっています。
「尋師不遇」(しをたずねてあえず)…文殊菩薩(もんじゅぼさつ)のような名僧を訪ねて行った処は老松がはえ、うぐいすの鳴き声がする寺院である。だが師は留守で会えなかった。私の日頃の精進が足らないので仏縁も尽(つ)きたのかと恥ずかしく思う。しかし寺院のほとりの綾川の橋の上を行ったり戻ったりしていたら私の心は洗われるような清い心になった。
その後、道真と空澄は親交を深め、心を許しあえる友となり、龍燈院綾川寺の境内に道真さんが宿泊する官舎まで造られたと伝えられています。
滝宮天満宮
道真は滝宮念仏踊りの由来をみてもよくわかるように国司として在任中は善政を施(ほどこ)していたので4年間の任期を終えて京に帰るとき、人々は川西で見送りをし、頭を伏せて拝んで別れを惜しんだそうです。この地を「伏拝(ふしおがみ)」と呼び、五輪石が建てられたと伝えられています。
道真は京に帰ってから出世し右大臣までなりましたが、藤原家の画策により冤罪(えんざい)を負(お)って、九州大宰府に流されることになり、海路で向かっていた途中、強風で高松市香西の神在浦(じんざいうら)に三日間泊まりました。これを知った龍燈院綾川寺の住職空澄は秦久利(はたのひさとし)、平雅倶(たいらのまさとも)と三人で会いに行き、許されて船上で会うことが出来、少しの時間別れを惜しみました。別れ際に道真から記念として御装束(ごしょうぞく)と自画像を賜(たまわ)りました。その2年後に道真が大宰府で亡くなったのを知った空澄は道真が官舎としていたところに小さな祠をつくり、道真から賜った二品を奉納して道真の冥福(めいふく)を祈ったのが「滝宮天満宮」の起源と言われています。
その後、時の権力者、領主により手厚い保護を受け立派な社殿がありましたが、1873年(明治6)西讃の暴徒が役場、小学校などの施設を焼き討ちにして暴れ周り、社殿一切も焼失しました。
それから3年後、綾歌郡内の各役場に天満宮世話掛を設け、募金を集め県内外の寄付により1888年(明治21年)に現在の社殿が完成しました。
全国に天満宮、天神さんは数多くありますが、ほとんどは北野か太宰府から勧請(かんじょう)(分霊をお願いして迎える)された社(やしろ)です。道真と直接深い縁(えにし)を持つ滝宮天満宮がこの地にあることは私たちの誇りでもあり、大切にしたいものです。
滝宮天満宮は学問の神様、菅原道真を主祭神として祀(まつ)られ、受験生をはじめその徳を慕って参拝する人が多く香川県下では有名な神社です。また道真の祖先である相撲の神様、野見宿弥(のみのすくね)が一緒に祀られています。その故事に倣(なら)い、滝宮天満宮の境内に立派な相撲の土俵があり、滝宮地区の子どもたちの健全な心と体の成長を願って、滝宮小学校の児童と保育所園児による当屋奉納相撲(とうやほうのうすもう)が毎年9月25日に行われています。
滝宮神社の氏子が輪番制で当屋をつとめて実施する奉納相撲が古くから、現在まで続いていることは滝宮地区住民の子どもの育成に対する思いの表れであり、特筆すべき事柄でしょう。
滝宮天満宮の当屋奉納相撲