道真は配所の大宰府南館で59歳の生涯を閉じました。「他国で死んだ者は遺骨を故郷に帰すが、自分は思うところがあって願わない」という道真の遺言(ゆいごん)に従って門弟の味酒安行(うまざけやすゆき)は遺体を牛車(ぎっしゃ)に乗せて大宰府の東北へと進みました。しばらく行くと突然牛が動かなくなったので神の思(おぼ)し召(め)しと思い、そこに遺体を埋葬(まいそう)しました。2年後に安行は神のお告げによりそこに祠(ほこら)を造り道真を祀(まつ)りました。
919年(延喜19)京では変事が続き、道真のたたりだと思われ、道真の御霊を鎮(しず)めるために醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府まで下向(げこう)して安楽寺にある道真の墓の上に社殿を造営しました。これが大宰府天満宮の始まりです。(明治元年に神仏分離令が出るまで安楽寺天満宮と呼ばれていた)
その後、社殿は戦火で幾度か焼失しましたが、現在の社殿は1591年(天正19年)小早川隆景(三矢の教えの毛利元就(もうりもとなり)の子)が寄進したものです。広大な境内には六千本もの梅が植えられ、本殿脇には道真を慕(した)って京から一夜にして飛んできたという「飛梅(とびうめ)」があります。
また、道真が左遷された直後は誰も近寄らず、食事もままならなかった折に、老婆が梅の枝の先に餅を刺して差し出したのが発祥といわれる「梅(うめ)が枝(え)餅(もち)」が名物土産となって、多くの店で売られています。
全国天満宮の総本宮と称えられ、「学問の神様」を慕う参拝客は年間7百万人にものぼるといわれています。