龍燈院は行基菩薩を開祖とし、弘法大師空海が中興開基したと伝えられている。
行基菩薩は奈良時代の682年(天武11年)15歳で出家され、飛鳥寺で法相宗を学び、近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業活動を行い多くの素晴らしい業績を残された高僧である。また東大寺の大仏造立にも関り開眼供養の導師も努められた。天平感宝元年(天平21年)80歳の時善光寺で入滅されている。
その行基菩薩が天皇の命令で国中を巡回され、讃岐の中央である阿野(あや)滝宮現在の綾川の河辺に立たれ、目にされたものが深い青色の清流やその流れる音、鳥の鳴き声やさえずりが耳を楽しませ、周りの素晴らしい岩窟の趣に、言葉で言い表せない気持ちになっていた時「ここは堅固不動にして、何となく菩薩がお住まいしていて、法を説く場所を表しているようだ。ここにお寺を建て多くの人々の生きる幸せな場所とするように。私は多くの人を守ってあげる。」というお告が聞こえてきた。声の主(あるじ)の今見たお姿を彫るとまさしくそれは大悲観自在菩薩の尊いお姿であった。
そこに3メートルの茅葺きの祠を建立して、その彫られた像を安置した。これが龍燈院の始まりである。人々は、「瀧(たき)の御堂(みどう)」と言って崇(あが)めていた。
(なお言い伝えによると、この場所は仏様の中では、仏法を興す場所としてすでに定められており、何れの方がこの土地と定めて祠を建てるかを待っておられたとのことである。そのぐらい素晴らしい場所だったのである。)
行基菩薩は、738年(天平10年)朝廷より「行基大徳」の諡号(しごう)(死後、生前の功績をたたえてその人につける称号)が授けられた。また、745年(天平17年)朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に賜った人である。