806~809年(大同元年~4年)の頃、弘法大師空海が「瀧の御堂」に帰郷され、荒れ果てた御堂の前に立ち止まりふと北の空にきれいな虹を見つけた時、一瞬神秘的な気配が感じられ、あたかも仏様の化身が今にも現れるのを待っているかのように思えた。
この後、地域の人々をお招きして「瀧の御堂」の今までを褒め称えて講釈し、人々の力を得て、再び仏殿と庫裏(くり)を建立し、この山を「北山」と呼び、寺を「綾川」と名付けられた。
ある日弘法大師空海がお経を廻り読みされている時に、綾川の深い淵(通称オミタライまたはオミタラサンと呼ばれていた。)より一人のご婦人がおでましになられた。上品で物腰は柔らかく、仏前にひざまずかれておっしゃるには、「私は天子の一族である。人々が悲しみと憐れみの心を持ち心ばかりのお供えをして、慎み敬い、手を合わせ手厚くねんごろに仏様を拝むことだ。亡くなられた方の霊にお供え物を捧げ、お坊様のお話を聞くことは、高いご利益が得られるはずだ。」と、たちまちに男性に変身されると南の空に光が走りお姿が消えた。
弘法大師がこのめでたい光景にちなんでこの寺を「龍灯」と名付けた。
真言宗讃州阿野郡滝宮村北山龍燈院が開基された。807年(大同2年)弘法大師空海が33歳の頃かと思われる。
(ある説によればこの後は、龍の仲間が毎夜火を灯すことが長い間続いたと言われている。その証が現存する龍灯石であると。)
初代住職は智泉大徳(ちせんだいとく)である。智泉は弘法大師空海の甥、十大弟子の一人で滝宮生まれである。(父は781年~806年の頃の讃州滝宮の官吏で菅原氏、母は弘法大師空海の姉千恵子氏、789年(延暦8年)5月14日生れ)
(出典 開基以来住職書き出し帳 1792年(寛政4年)閏2月15日役所へ納める。京都大覺寺末寺阿野郡南滝宮村 龍燈院。1869年(明治2年)神仏分離に当たり念のため書き写したもので、筆者は綾川宝住職である。)
1665年(寛文5年)7月に京都大覺寺の御末寺となる。