仁和の頃菅原道真は、讃岐の国20万人の国守として赴任せられ仏教を尊び崇め、仁政を施された。たまたま龍燈院に詣でられ住職空澄(第5代)と昔のお話をなされたり素晴らしい景観がおぼし召しになりたびたびお越しになられた。
889年(寛平元年)7月の頃、霧のような細やかな雨が幾日も降り続くなか、はやり病が人々を悩まし、牛や馬に災いが襲いかかり、その上土地の人達も夕方になると倒れて亡くなられる者数知れず、焦りを感じておられた。菅公さんは深く悲しまれ、般若心経十巻を写経され、お坊さんを集めて一緒に平穏無事を祈り読経された。
一方、龍燈院住職空澄は里の人たちを集めて読経し、あわせて護摩壇を設け17日間誠心誠意、難が除かれますように、幸せな生活をお守りくださいますようにと祈った。最後の夜貴人の相をし礼服をまとった仏様のお使いかと思われるお方の夢を見た。
そのお方がおっしゃるには、「私は素盞鳥(そさんちょう)である。別の呼び名は素盞鳴鳥(そさんめいちょう)、素戔鳴尊(すさのおのみこと)、さらには牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれている。日本全国の祗園の土地(八坂神社の荘園の土地。旧滝宮村と萱原村はその荘園の土地であった。)に牛頭天王と名乗って出向き、それぞれの土地を鎮め、守り、安定を図っている。
時には、菩薩薩田(ぼさつさつた)や護法善心(ごほうぜんしん)に姿を変え里人からすこし離れた所に居て、信仰心のない人々を指導したり、人の徳を慕う人々を褒めたたえている。
また、今苦しんでいる人々に成り代わって、病や難儀を取り除いてその苦しみを終わらせてあげることもできる。
人々に徳をもって教え導いたり、病や難儀から助け出す術を伝授して、今私が行っている役割をあなたに譲りましょう。」とおっしゃった。
翌日菅公さんがお越しになられた時昨夜の夢のお話をされた。菅公さんはそのお話に深く感激され、命じて尊像を院に遷座され、ここを本拠とする神社を建てることを決定された。
人々や牛馬の病気、災難から守ることで村々が元気になり、神社仏閣を敬う人々も多くなって、社殿も華やかとなりその景観が人々の心を慰めるようになった。
菅公さんが任を解かれ都にお帰りになった後の901年(昌泰4年)讒言(ざんげん)にして訴えられ、官職を落とし太宰府へ流されることとなった。
客船が風を避けて笠居の浜に留まること3日、人々は頭を地に着けて拝礼し、旧恩を感謝しお別れの悲しみを言う者数知れず。
旧臣の平雅倶(たいらまさとも)、秦久利(はたのひさとし)そして龍燈院の住職空澄と3人のお子達、お目通りがかなうよう何度も何度も泣いてお願いをした。役人も人を慕う誠実な心を憐れに思われ客船に入ることを許された。
菅公さんは国民(おおみたから)の強い真心の思いに血涙抑えがたきをこらえにこらえて、空澄の手を握りねんごろに自分の没後のことを頼まれた。自書された般若心経一巻を雅倶に賜り、久利には自らの肖像画一幅を画き与えた。
(ある説によると、波に写るご自身を写されたとも言う。ために水鏡の御影とも言われている。そして梅の木一束を与えて私と皆さんが主従の関係にある限りはこの梅の木も枯れないだろうとおっしゃった。久利持ち帰って自分の畑に植えた。花の色は五色。今も中間(なかつま)(高松市中間町)の鶯宿梅(おうしゅくばい)と言われている。)
903年(延喜3年)2月25日、筑紫の配流池でみまかられた。904年(延喜4年)7月11日風の便りで亡くなられたことを知る。知らせを聞いた空澄は仲間のお坊さん達を集めて一千部の妙経を読み、ご恩に報いご冥福を祈った。
知らせを聞いて大勢の人々が集まり悲しむ嘆くその声が道々に溢れた。時あたかも盂蘭盆(うらぼん)に近く、世間の慣例に従いおどけて踊った。鉦(かね)を鳴らし、鼓(つづみ)を打ち、笛を吹き念仏を唱えながら歌い踊り、遙か太宰府に向かって胸をたたき地団駄を踏んで悲しみ、菅公さんを偲び哀悼の誠を伝えること、今に至るも絶えることは無い。
948年(天暦2年)龍燈院のそばに土地を定めて、天満の神を祀る社を建立し、お礼のお参りをすることが始まったという。現在の滝宮天満宮の創建である。