1 まえがき

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 千葉市は「人間の尊厳」を基本理念とし、その都市像を「魅力と風格のある都市」に求めて、未来に向ってたゆまない歩みを続けている。かつて、ギリシァの都市国家(ポリス)は市街地と周辺の田園から形成され、外部に対し、全く独立していた意味で自由であり、内部は自らの法によって治めていた意味で自治であった。今日の千葉市が描く都市像はギリシァの都市国家と全く異質であるが、千葉市は、巨大都市東京に隣接し、県都として県政の膝下にあっても、自治体としての独自性を喪失することなく進んで、住民優先の市政展開を策定しているのである。また、千葉市は市街地のみならず、周辺の農村地帯を抱含する雄大かつ多彩な性格を有する都市を想定している。本市の背後に横たわる丘陵地帯は、都市近郊農業の適地であり、豊かな緑地帯は市民の憩の場として、将来重要な役割を果たすであろう。市の前面は京葉工業地帯の中核として、日本経済の一翼を担うとともに、千葉港を擁して世界の港に連らなり、空は成田新国際空港に隣接して、世界の空と手を結ぶなど国際都市の性格を強くしている。
 前千葉市長 宮内三朗は「天ノ時ハ不地ノ利ニ。地ノ利ハ不人ノ和ニ」(孟子 公孫丑章句)をしばしば引用し、天の時、地の利、人の和を強調したが、この地は、古くから天の恵みを被り、地の利を得て発展し、現代に至っている。遠く先土器文化時代の遺物が市内椎名崎町木戸作など数カ所より出土している事実は、現市域が地の利を得ていた証拠といえよう。縄文、弥生文化時代の遺跡・遺物も現市域で数多く発見され、千葉市は原始時代の「高級住宅地」であったとの異名を与える人さえいる。気候温暖に、海・山の幸に恵まれた千葉の地は、住居地としてのみならず、狩猟、漁撈、農耕など生産活動の場としても最適であったといえよう。しかも、この天の恵、地の利を生かした人々の知慧、すなわち、共同生活にみられる人の和にも着目したい。
 千葉市の都市としての始まりは、大治元年(一一二六)千葉常重が千葉氏の守護神妙見尊を奉持して、土気大椎から、千葉猪鼻台に居城を構えたに始まる。以後、約三三〇年間、城下町千葉は千葉氏の発展とともに栄え、下総一国の政治の中心地の役割を果たすこととなった。鎌倉、室町、戦国時代、勇猛をうたわれた関東武者が馬を駆って、この地を往還した様子がしのばれる。『千学集』によれば、「凡そ一万六千軒」の家なみがあったと伝えられるが、この数字は誇張があって信頼できないまでも、当時、相当の人口があったと思われる。城下町は城主とその運命をともにするといわれるが、十五世紀半ばの一四五五年(康正元年)、千葉介胤直のとき、一族の反乱によって、猪鼻城は落城、城下は兵火にあって潰滅したと伝えられている。以後、千葉町は城下町として再興される機会に恵まれず、下総の一寒村となり、かつての繁栄の姿は全く消滅してしまった。
 江戸時代には幕府の政策上、江戸近辺は大大名を配置せず、親藩、譜代の小大名、旗本知行地、町奉行配下の与力給地、天領、それに寺社領と細分されたが、現市域も前記各支配地となって時代が推移していくのである。江戸時代も半ばを過ぎると、千葉町は農村的性格のほか、陸上は木更津、大多喜、佐倉方面へのルートの要地とし、海上は寒川、登戸が江戸築地表への最短距離にある佐倉藩の港として、活況を呈することとなった。佐倉藩の物資(特に米と木炭)の集積地、江戸街道に沿った宿場町の性格が千葉町に加えられていくのである。
 明治六年(一八七三)千葉県庁が千葉町に置かれた。ここに千葉町は再び県政の中心地となって、政治的性格と近代都市への発展の機会に恵まれたのである。県都は当然のこととして、医学校、師範学校、中学校、高等女学校など諸学校の創設の場所に選ばれて、県下の学術、文化の中心となり、千葉町は文教都市の性格をも与えられるに至った。明治二十七年(一八九四)総武鉄道千葉駅が開設され、以後、千葉町を起点に、県内各地に鉄道網が整備されていくと、千葉町は県下鉄道網の要となって、飛躍的発展を遂げることとなった。この発展の中で、大正十年(一九二一)千葉市が誕生したのである。昭和十年(一九三五)千葉東京間の電化によって、千葉市は東京の通学、通勤圏内に入り、東京の衛星都市の要素を加えるとともに、人口の急激な増加をもたらすのである。更に、日露戦争後、陸軍鉄道第一連隊、続いて、陸軍歩兵学校、陸軍防空学校、陸軍戦車学校など軍関係施設の設置は、千葉市に軍都としての性格を附与することになったのである。こうして、戦前の千葉市は県庁の所在地、交通、商業の要地、東京の衛星都市、学術・文化の中心地、軍都などさまざまな要素、性格を持つ都市として発展しつつあった。一見、工業的要素の導入を千葉市が怠ったように思われるが、大正十二年(一九二三)参松工業株式会社を誘致し、食品工業の育成を図った。しかし、原料の甘藷の栽培による、農業の育成に主眼が置かれて、地場産業の域を脱せず、近代工業地帯にまで発展することは期待できなかった。昭和に入って、都川河口より蘇我町に至る海岸を埋立て、日立航空機製作所の建設により、航空機産業を基軸に工業発展への道をたどるかにみえた。
 しかし、昭和二十年(一九四五)米軍機による波状攻撃によって、千葉市は潰滅的打撃を受け、市街地建物の七〇パーセントは焼失、破壊されたといわれる。
 戦後、戦災の復興から新しい都市づくりが始まる。昭和二十五年(一九五〇)、当時の市政担当者は戦後の復旧が成就したとは考えなかったが、千葉市は統計上の数字において、道路や建物は戦前の状態に戻っており、昭和二十五年度当初予算の項目から戦災復興費は消え去っている。以後、戦災の復旧から、近代化による繁栄へ、軍都、消費都市から、文化・生産都市への道を踏み出す千葉市をみることができる。昭和二十五年川崎製鉄株式会社が、千葉市に製鉄所の建設を決定し、同時に千葉港の拡張、整備が計画された。この計画が実施されるにつれ、工業生産額は飛躍的に増大し、更に昭和三十年代後半には金属、機械工業をはじめとする内陸工業地帯も形成されて、産業構造は大きな転換を遂げていった。また、千葉港の整備は大型外航船の入港を可能にし、輸入原料の加工に始まる食品コンビナートの建設、関東一円の自動車販売の基地、卸売商業団地の建設など、千葉港を軸として、著しい発展を遂げるに至った。このような工業の発展は市財政に大きな影響を与えた。昭和三十一年、赤字再建団体の指定を受け、五カ年計画で赤字の解消を図るが、市当局者の努力もあって、三カ年で目的を達成している。この豊かになった財政を背景に、学校、道路などの公共施設への投資がなされる。とくに、都市公園、泉自然公園、昭和の森など、市民に緑を与える政策は千葉市の特色といえよう。そして京成千葉駅、国鉄本千葉駅、国鉄千葉駅を大胆に移転して、新しい市街地の中心を形成した。
 工業の発達と坂月ニュータウン、花見川団地を筆頭に小・中・大規模団地の建設は爆発的ともいえる人口の急増現象となってあらわれ、工業の発展とあいまって種々の都市問題をひき起こしている。
 大気汚染、水質汚濁、地盤沈下、騒音、悪臭、廃棄物の処理、住宅難、交通難など緊急に処理すべき問題が山積している。これら諸問題の解決は容易ではない。しかも、一時的、表面的な繕いで間に合わせにすることは許されない。根本的解決が早急に実施されることが望まれているのである。そのためには長期的な展望に立つビジョンが不可欠といえよう。幸い今日、千葉市は無計画な人口流入を抑制し、生活環境の破壊を防止し、すすんで、県都及び首都圏内の中核都市としての役割を自覚し、健康で文化的な生活優先の人間都市建設を宣言している。現在及び将来、千葉市がもつであろう経済力と人々の英知は必ずこれらの新しい都市づくりを完成するであろう。