第一項 植生の変化と都市林の造成

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 千葉市の土地利用は、総面積の四六パーセントが耕地、一八パーセントが宅地、雑種地が三パーセント、山林が三一パーセント、原野が二パーセントである。過去にさかのぼれば耕地・宅地や雑種地は面積が縮少し、山林・原野の面積が拡大する。さらに人間が居住しなかった過去には、台地も低地もすべて山林・原野だけとなるであろう。その時代の山林・原野の植生は今日にみる植生とは異なるものとなる。前述の東京湾内の海底の地層にふくまれている花粉を分析して、過去における台地や低地の植生がいかに変化したかを知ることができた。氷河期には台地に針葉樹が繁茂したが、その後の間氷期には台地に広葉樹が繁茂した。この間に一時的な冷涼な気候の期間があって針葉樹が増加したが、温暖な気候となって現在の植生とつながる広葉樹の森林が台地にひろがった。しかし海底の最上層の花粉は針葉樹であり、これは最近の人工林の影響であると思われる。花粉分析によって、台地や低地における植生の巨視的な変化はわかるが、人間が居住してからの植生の変化を系統的に知るためには別の方法にもよらなければならない。それは現在の植生の中に残存している遺跡的な植生を手がかりとして復原することである。
 氷河期に繁茂した針葉樹林は気候の変化によって絶滅したから、その遺跡的植生は現在に残存していない。これに入れかわった間氷期の植生である広葉樹の植生も現在まで遺跡的植生としては残存していない。次の小氷期である冷涼気候の植生は、トチノキ・クルミが代表種である。今日の東北地方の植生が関東地方にひろがっていた。この時代の植生もまた千葉市内に遺跡植生としては残存していない。千葉市内における原生林といわれる遺跡植生は次の温暖気候によって冷涼気候による植生と入れかわった広葉樹林である。この広葉樹林は照葉樹林といわれる常緑広葉樹林である。この樹種は、アカカシ・シラカシ・イチイガシを中心としてクス・シイ・イヌグスなどである。林内の地表は、日光がさえぎられ、落葉がしきつめられ、暗く沈黙感がみなぎっている。県内では清澄山の浅間山が典型的である。千葉市内では神社の森が遺跡植生として点状に散在している。縄文時代や弥生時代の住居跡から「どんぐり」が出土するが、これも照葉樹の主要樹木である。この常緑広葉樹林が野火や濫伐によって二次的植生に入れかわり、コナラ・クリ・ソロ・アカメガシワなどの落葉広葉樹林に樅(もみ)・栂(つが)・榧(かや)などの巨木がまじっている雑木林や赤松林となった。特に千葉市を含む近世佐倉藩領では、佐倉炭の産地としてくぬぎ林が広く造林されたのでくぬぎ林も多い。この二次的植生は今日の台地が低地のやつ田にのぞむ斜面や畑地をかこむ防風林として残っている。今日の千葉市の山林面積の九八・三パーセントは松・杉などの針葉樹林であり、人工林か天然更新林である。天然広葉樹林はわずかに一・七パーセントにすぎない。

1―10図 遺跡植生の照葉樹林(平川町)

 千葉市の台地の植生は今日の畑や二次的植生の雑木林や針葉樹林となっている土地も近世にさかのぼれば草生地であった所もある。近世後期の国道五一号線の沿線の植生を書きのこしたものに『相馬日記』がある。
  酒々井の駅より道を左にとりて山際の里に入る 神戸馬渡などいう所を過ぎて千葉郡の荒野に出づ この野は横に坂東道廿里ばかり 縦には限りしれぬ広野なり 今はこのてがしはなどいふも見えず ただ尾花の色なり 白妙の浪かと疑はれたる ふるく葛飾野といへるも この野の西の方のつづきなるべし 貝塚村を過ぎて 千葉の里に入る。
 この千葉野といわれる草生地は、鎌倉時代から軍馬育成の馬牧に利用され、千葉常胤の名馬「薄桜」もここから産している。この千葉野の地つづきに、西方には小金五牧、東方には佐倉七牧として近世に幕府の馬牧が設定されて近世末までつづき、明治二年に東京新田として開拓されている。しかし千葉野には近世に多くの新田・新開などの畑作村落が建設されて、耕地や造林が行われて現在につづいている。
 明治二十一年の千葉市の総面積のなかに山林は四五パーセント、原野は五パーセントを占めていた。耕地は四五パーセント、宅地は二パーセント、その他は一パーセントであった。それから三〇年後の大正六年には山林は三八パーセント、原野二パーセントに減少し、耕地は四七パーセント、宅地は一三パーセントに増加した。昭和四十五年には耕地は四六パーセント、宅地は一八パーセント、山林・原野は三三パーセント、その他は三パーセントとなった。最近半世紀の間に市街地が拡大し、いちじるしく山林・原野は縮小したのである。

1―11図 千葉市の植生の現況