さて南関東地方の洪積世時代の地層(洪積層)を見ると、赤土と俗称される関東ローム層(火山灰と軽石の細粒からなる)の下に成田層群がある。成田層群は上総、下総地方の基盤をつくる地層で、下から地蔵堂層、籔層、瀬又層、成田層(姉崎層)に分類される。更にその下には上総層群があって、これは三浦半島に続いている。つまり上総層群の時期になると、房総南部と三浦半島とは陸続きになった。一方銚子付近は古生層―中世層の古い地層で早くから太平洋の孤島のように海上に浮かんでいたが、上総層群は次第に北東に伸びて銚子付近の孤島に接近する傾向を示した。そしてこの北西方には、現在の上総台地西部(君津郡大佐和町以北)・下総台地・大宮台地・結城台地(猿島相馬台地)・常陸台地を包む広大な皿状構造の入江が形成され、鹿島灘に開口していた。これを古東京湾と呼ぶ。この皿状構造の地形は、いわゆる関東構造盆地と称されるもので、上総層群上部の成立以後に行われた地殻の傾斜的上下運動に起因するもので、盆地が下降する場合は、周囲が中心に対して、相対的に高まると同時に直径も幾分狭くなるが反対に上昇する場合は、全く逆の現象があらわれる。房総半島における関東構造盆地の外縁は安房郡鋸南町―夷隅郡大原町を結ぶ線以北の丘陵地帯にあって、そこを水源とする小糸川、小櫃川、養老川、村田川、都川などの河川は、いずれも盆地の中心に向かって北西方向に流れて東京湾に注ぎ、また養老川と太平洋に注ぐ夷隅川の分水嶺では河川の争奪が行われているのは、以上の理由にもとづくもので、このような単斜構造の傾動運動は現在もなお続いている。昭和十年代に大塚弥之助はこの盆地の中心地域は、群馬県大箇野・埼玉県加須市付近で、地表下百メートルの位置に中下部洪積世時代の海成層があり、二四種の貝類の化石が発見されたと述べている(註3)。
さて古東京湾の最も広がった第二間氷期の時期には、群馬県桐生市付近まで、関東平野はことごとく海底に沈んでいた。この湾内に堆積した地層が成田層群で、各種の二枚貝や巻貝・有孔虫・珊瑚・鯨の化石を含んでいる。
成田層群の下部には、このほか旧象(ステゴドン属・パーエレフアス属・ロキソドン属)の化石も含まれている(註4)。おそらく彼らは古東京湾沿岸の原生林に生息していたものが、死後湾内に流されて堆積したものであろう。
成田層群の最上部を構成する成田層は古東京湾が浅海砂泥性の海になったころに堆積した地層で、東京の山手台地を構成する東京層に対比され、その終末は第三氷期に及ぶ。印旛郡印西町木下・成田・酒々井に顕著な露頭がある。木下貝層からは一八〇種以上の軟体動物の化石が検出され、浅海となっていた古東京湾の生物の生態や水温の状況を知る重要な資料となっている。
古東京湾が浅海となった理由は、第三氷期における海退と沿岸台地からの土砂の流入にもよるが、このころから活発になった火山灰の降下がより重要な役割を果たしたのである。この火山灰の堆積した地層を関東ローム層と呼ぶ。