すでに第一章で述べたように、関東ローム層は下位のものから上位のものへと、多摩ローム層、下末吉ローム層、武蔵野ローム層、立川ローム層の四つに区分される(北関東の赤城山麓では、ローム層を上・中・下の三層に区分したが、この下部ローム層は南関東の下末吉ローム層、中部ローム層は武蔵野ローム層、上部ローム層は立川ローム層に対比される)。
多摩ローム層は伊豆半島の諸火山や古箱根火山の噴出物で、酸性の強い安山岩質のものであるが、関東西南部に多く、房総半島では明らかでない。このころは第二氷期に相当する寒冷な気象下に、ツガ・トウヒ・ホウセンジグルミ・エゴ・イヌブナなどが茂り、旧象は姿を消してナウマン象があらわれる。房総では瀬又貝層・木下貝層の順に古東京湾の底に堆積していた。中国に藍田原人、北京原人が生活していたのもこの時代である。
下末吉ローム層は第二間氷期に始まり、第三氷期を経て第三間氷期に及ぶ実に三十数万年間の堆積物で、古箱根・榛名・妙義・日光などの火山物質からなり、輝石を多量に含む安山岩質のものである。杉原重夫は下総台地西部におけるこのローム層中に介入する上・中・下三段の軽石層を究明した結果、中部軽石層以下のロームには砂層や泥炭の薄層が挾まれているのに対し、中部軽石層以上のロームは粘土質であるところから、前者は古東京湾の海中に堆積したものであるが、後者は風成のものであると認め、中部軽石層を境として下総西部の台地の骨格をなす下総上位面が海上に隆起し、これによって古東京湾が現在の東京湾方向と鹿島灘方向とに分断されたと考え、更にこの原因は第二間氷期における下末吉海進が次の第三氷期において海退に転じたことと、その過程で起こった東京湾造盆地運動(このことについては後に詳述する)とにあると述べている(註7)。
2―1図 第三紀中期より第四紀沖積世初頭における関東地方の水陸分布図 (與世里盛春による)
芹沢長介は、栃木県栃木市星野遺跡の第八文化層以下の石器、同県足利市大久保遺跡、群馬県勢多郡新里村不二山遺跡などは、この時代のものとしている(註8)。これらの遺跡は古東京湾の北岸に面する丘陵の末端に位置するもので、現時点ではさきに述べた葛生原人とともに、関東に初めて足跡をのこした人類の文化遺産として注目される。
武蔵野ローム層は次の立川ローム層とともに第四氷期に対比され、古富士火山の降灰によるもので、玄武岩質の堆積物である。この層の下部は杉原重夫のいう東西に分断された古東京湾の水中に堆積したものであるが、ほかの大部分は、古東京湾が干上(ひあ)がって、一望千里の大湿原から亜寒帯性の草原に変わりつつあったころの堆積物であろう。群馬県伊勢崎市豊城町権現山遺跡の権現山Ⅰ・権現山Ⅱ文化層はこの時期のものとされている。
立川ローム層は第四氷期中ごろ以後のものである。つまり大氷河時代最後の寒冷な気候が支配し、西の空からは古富士火山の降灰が昼夜を分たず、数千年の間、断続的に降りつもった。そして次第次第に高低のなだらかな平原や沼沢地が南関東の各地にくり広げられた。その厚さは西関東では四~五メートル、常総地区でも二メートル前後に達する。いかに降灰量が多かったかがわかろう。そして海は益々遠のいて、関東最大の陸地時代を現出した。このときの海水面の低下は、現在の海水面と比べてマイナス一四〇メートル前後になるという。今から約二万年前後のことである。現在の東京湾ももちろん干上がって広大な凹地と化し、そこに神奈川県・東京都側の鶴見川、多摩川、隅田川、荒川、江戸川、房総半島の真間川、海老川、花見川、都川、村田川、養老川、小櫃川、小糸川など大小の河川が合流して古東京川となり、神奈川県寄りに深い谷をつくりながら浦賀水道の中間付近で太平洋に注いでいた(註9)。また千葉県と茨城県の境には鬼怒川や小貝川が銚子方面に流れだした。印旛沼、手賀沼、霞ケ浦、北浦ができはじめたのもこのころである。
2―2図 東京湾海底地形図(貝塚爽平による)
この大陸地時代は一万六百年ころから海進に転じ、二回の停滞期を経て約一万年前から急激な海進に移行した。それは立川ローム層時代の後半から終末にかけてのことである。
この時代は一般に寒冷な気候に支配されて、関東平野には、チョウセンマツ、トウヒ、コメツガ、カラマツ、マツムシソウなど現在の北海道や中部高原地帯にみられるような植物が茂っていた。
しかしこのようなきびしい自然にもかかわらず、大陸と陸続きであった日本には、多くの動物とともに新しい人類が続々と、移り住んだのである。例えば哺乳動物では、現在日本に住んでいるもの以外に、オオカミ、ヒョウ、トラ、ジャコウジカ、クズウジカ、オオツノジカ、ヘラジカ、ハナイズミモリウシ(野牛の一種)、コウライカモシカ、モウコウマ、ノロ、サイ、マンモス象(北海道)、ナウマン象、青森象(ナウマン象の亜種?)など。
2―3図 日本におけるナウマン象化石の分布図(亀井節夫による)
2―4図 幕張町出土のモウコウマの右側上顎第二臼歯の化石(直良信夫による)
2―5図 ナウマン象推定図(金子三蔵画)(左)と印旛沼瀬戸出土のナウマン象化石(右) <千葉県教育委員会蔵>
ナウマン象はすでに第二氷期のころから日本に渡来し続けたものであるが、立川ローム層以前の化石は、瀬戸内海周辺から東海地方、古東京湾沿岸(註10)から多く発見されるが、立川ローム層時代の化石は、むしろ長野県・岐阜県の高原地帯から東北地方に分布し、まれに北海道からも発見される。このような分布の相違について亀井節夫は大要次のように述べている。アジア大陸のきびしい寒気と乾燥の影響を受けて日本に移動した人類は、比較的温暖で獲物の多い大平洋沿岸地域に集中した。このため、そこに生活していたナウマン象は、高原地帯や内陸の湖沼地帯へ移動したのではなかろうかと(註11)。
地質学ではヨーロッパの第四氷期(ウルム氷期)を七つの時期に細分し、寒冷な時期が四回(第一亜氷期~第四亜氷期)、やや温かい時期が三回あったという。このうち立川ローム層の時代は、大体第二亜氷期から第四亜氷期に至るものと考えられるから、この時代には三回の寒冷な時期の間に二回のやや温かい時期があったわけである。だからもしこの区分がアジア大陸にも適用するものとすれば、この時代にアジア大陸から人類や動物がわが国へ移住する波のピークは、第二・第三・第四亜氷期の三回あり得たことになる。
ヨーロッパの分類 | 関東ローム層 | |
第四氷期(ウルム氷期) | 第4亜氷期 | 立川ローム層 |
(温) | ||
第3亜氷期 | ||
(温) | ||
第2亜氷期 | ||
(温) | 立川礫層 | |
第1亜氷期 | 武蔵野ローム層 |
立川ローム層時代の人類や諸動物が日本へ移動した経路は、シベリヤ―樺太(サハリン)―北海道路線と、朝鮮―九州・本州路線である。
前者をマンモス象路線、後者をナウマン象路線と名づけよう。このうち関東地方にやって来た大部分の人類はナウマン象路線をたどったことであろう。
ローム層の断面を見ると、武蔵野ローム層と、立川ローム層の間に一枚、立川ローム層の中間に二枚の暗褐色から黒色を呈する帯が入っている(立川ローム層中の帯は、常総台地や北関東では一枚に見えることがあるが、これは上部の帯が薄く明瞭でないためである)。これらのいわゆる黒色帯は、火山活動が停止していたころ、地表面に堆積した有機質の腐植土と考えられる。考古学ではこれらの黒色帯によってしきられた層位に注目して、先土器時代の遺構や遺物が、どの層位にふくまれているかを見究め、これによって時期の先後を決定し、文化の推移を考察する。
最近の発掘ブームの中で、武蔵野ローム層と立川ローム層の境目にあたる黒色帯、またはこの黒色帯から立川ローム層に漸移するあたりに、石器が発見された代表的な遺跡は、群馬県新田郡笠懸村岩宿の最下層(岩宿Ⅰ)、同県伊勢崎市豊城町権現山Ⅲ、同県勢多郡新里村武井Ⅰ、栃木県真岡市磯山遺跡、千葉県成田市古込(ふるごめ)(新東京国際空港用地)五五号遺跡の五層下部から六層上面などである。このうち成田市古込遺跡では、石器に近接した木炭の中に含まれる放射性炭素C14による年代測定数値は、30,200±1,000と29,600±960であった(註12)。このことは、これらの諸遺跡を結ぶ関東平野には、今から約三万年前には、点々と人類が住んでいたことを推測させることになる。
摘要 No. | 所在地 | 遺物 | 備考 |
1 | 銚子市粟島台 | ポイント | 千葉県北総公社文化財調査第二班『三里塚』昭和46年 |
2 | 柏市北柏字鴻巣 | ブレイド・フレーク | 古内茂発掘 |
3 | 松戸市寒風字紙敷 | 有茎ポイント | 湯浅喜代治、戸田哲也、多賀譲治「千葉県松戸市周辺の先史文化遺物について」『下総考古学』昭和43年 |
4 | 〃 新作妙見神社裏 | 黒曜石剥片? | 土取現場表採『松戸市史』上巻 昭和36年 |
5 | 〃 上本郷貝塚北方100メートル竜善寺付近 | 黒曜石剥片・石核? | 表採『松戸市史』上巻 昭和36年 |
6 | 〃 日暮字下柏葉台 | 木葉形ポイント | 松下邦夫『松戸の歴史案内』昭和46年 |
7 | 〃 和名ケ谷 | 木葉形ポイント・ブレイド? | 〃 〃 〃 |
8 | 〃 子和清水 | 木葉形ポイント | 岡崎文喜「松戸市子和清水発見の石槍について」『大塚考古』9号 昭和42年 |
9 | 〃 紙敷字中峠 | ポイント | 表採、湯浅喜代治『かみしき』昭和48年 |
10 | 〃 大橋字内山 | ポイント | 「大橋」『松戸市文化財調査報告』第3集 昭和46年 |
11 | 松戸市内 | ブレイド | 表採、松戸市郷土館蔵。 |
12 | 〃 | ポイント | 〃 〃 |
13 | 市川市北国分町堀之内P地点 | ナイフ状刄器 | 『市川市史』昭和46年 |
14 | 〃 国府台4丁目丸山 | 石核・切出形石器 | 杉原荘介・大塚初重「常総台地に於ける関東ローム層中の石器文化」『駿台史学』5号 昭和30年 |
15 | 〃 大野町4丁目殿台 | 槍先形ポイント | 安蒜政雄「殿台遺跡」『市川市文化財調査報告書』2集 昭和45年 |
16 | 〃 柏井町1丁目今島田 | ナイフ状刄器・掻器・削器 | 熊野正也「今島田遺跡」『市川市文化財調査報告書』1集 昭和44年 |
17 | 〃 北台貝塚 | ポイント(骨角製) | 西村正衛「千葉県市川市国分旧東練兵場貝塚」昭和36年 |
18 | 船橋市夏見台 | ポイント | 船橋市郷土資料館『資料館だより』No.1 昭和47年 |
19 | 〃 西習志野 | ポイント | 表採、高橋熈蔵 |
20 | 〃 藤原1丁目法蓮寺山第1号住居址西側 | ブレイド・石核 | 日本鉄道建設公団『小金線』昭和48年 |
21 | 習志野市自衛隊敷地 | 有茎ポイント | 表採、小山勝良蔵 |
22 | 千葉市幕張町宮ノ台 | 石核・チップ | 倉田芳郎「上ノ台遺跡・宮ノ台地区の予備調査について」昭和49年 |
23 | 〃 小中台町鳥込東 | ポイント・ブレイド? | 発掘(鳥込東遺跡発掘調査団) |
24 | 〃 作草部町正善院裏 | ポイント | 表採 千葉県立千葉高等学校蔵 |
25 | 〃 高品町高品A地点 | 掻器 | 古内茂「高品第二遺跡」『京葉』昭和48年 |
26 | 〃 貝塚町耳切 | 有茎ポイント | 表採 |
27 | 〃 貝塚町車坂 | ナイフ形石器 | 真下高幸「車坂遺跡」『京葉』昭和48年 |
28 | 〃 都町兼坂 | ポイント | 種田斉吾「兼坂遺跡」『京葉』昭和48年 |
29 | 〃 桜木町大作 | 有茎ポイント | 表採、江崎武「千葉市加曽利発見の有舌尖頭器」『金鈴』9号 昭和41年 |
30 | 〃 坂月町蕨立貝塚 | 有茎尖頭器 | 表採。千葉市立高等学校蔵 |
31 | 〃 大草町外野 | 木葉形ポイント | 表採 |
32 | 〃 椎名崎町木戸作891 | 掻器 | 発掘(千葉市史編纂委員会) |
33 | 印旛郡印西町竹袋字天神台貝塚 | ポイント | 金子浩昌「印旛・手賀周辺地域埋蔵文化財調査」本編 昭和36年 |
34 | 印旛郡印西町草深字地国穴台 | 隆線文土器・爪形文土器掻器・ナイフ形・ポイント・有茎ポイント | 伝聞、(千葉県北総公社発掘) |
35 | 〃 〃 小倉字高根北 | 押圧縄文土器・ナイフ形・ポイント・グレィバー | 伝聞、( 〃 ) |
36 | 〃 〃 小倉字榎峠 | 爪形文土器?ポイント・細石刄・スクレーパー | 伝聞、( 〃 ) |
37 | 〃 〃 小倉字木苅峠 | 押圧縄文土器・ポイント・ナイフ形・グレィバー・細石刄・細石核・有茎ポイント | 伝聞、( 〃 ) |
38 | 〃 本埜村竜服寺字向原 | 有茎ポイント・ポイント・ナイフ形・掻器・細石刄細石核 | 伝聞、( 〃 ) |
39 | 〃 〃 角田字雨古瀬 | 押圧縄文土器・掻器 | 伝聞、( 〃 ) |
40 | 〃 印旛村瀬戸字遠蓮 | 隆線文土器・押圧文土器ブレイド・ポイント・石核・スクレーパー・有茎ポイント | 伝聞、( 〃 ) |
41 | 印旛郡富里村七栄通称南大溜袋 | ポイント・掻器・細石器石鏃・矢柄研磨器 | 戸田哲也「千葉県南大溜袋遺跡の調査」『考古学ジャーナル』No.84 昭和48年 |
42 | 〃 八街町住野 | 剥片・ブレイド | 伊藤和夫「千葉県石器時代遺跡地名表」昭和34年 |
43 | 成田市久住字荒海 | ポイント | 金子浩昌「印旛・手賀周辺地域埋蔵文化財調査」本編 昭和36年 |
44 | 〃 〃 | ブレイト | 成田山新勝寺霊光館蔵 |
45 | 〃 米野字赤坂 | ナイフ形石器・グレーバー | 「成田ニュータウン文化財調査概況」『千葉県の文化』No.4 昭和46年 |
46 | 〃 台方字橋賀台 | ノッチドスクレーパー・ポイント | 〃 〃 |
47 | 〃 東三里塚No.3 | ポイント | 千葉県北総公社文化財調査第二班「三里塚」昭和46年 |
48 | 〃 〃 No.51 | 有茎ポイント・ポイント削器・掻器 | 〃 〃 |
49 | 〃 〃 No.52 | ブレイド・細石器・その他 | 〃 〃 |
50 | 〃 古込(ふるごめ)No.55 | 敲打器・その他 | 〃 〃 |
51 | 〃 取香牧No.22 | ポイント | 表採、「三里塚」 |
52 | 〃 囲護台 | ポイント | 表採、成田史料館蔵 |
53 | 佐倉市吉見字飯郷 | 剥片石器 | 伊藤和夫「千葉県石器時代遺跡地名表」昭和34年 |
54 | 〃 臼井字江原台 | ポイント | 「印旛・手賀周辺地域埋蔵文化財調査」本編 昭和36年 |
55 | 山武郡横芝町 | 有茎ポイント | 表採、鈴木道之助蔵 |
56 | 市原市中高根字南原1382 | ポイント・掻器・切出形石器・細石器 | 表採、「市原市のあゆみ」昭和48年 谷島一馬談 |
57 | 〃 江子田字送リ神 | 掻器 | 表採、田中喜一談 |
58 | 〃 江子田南総中学校遺跡 | ブレイド | 〃 〃 |
59 | 〃 豊成字向山 | ナイフ形石器・細石器 | 『朝日新聞』京葉版 昭和49年3月16日 |
60 | 君津郡大佐和町天神台 | ポイント | 表採、内野三夫談 |
61 | 富津市岩坂俗称天王台 | ブレイド | 表採、野中徹談 |
62 | 安房郡富浦町大房岬 | 剥片 | 貝塚爽平・芹沢長介「石器時代」5号 昭和33年 |
63 | 勝浦市上長者ケ台492 | ブレイド・フレーク・ポイント | 『朝日新聞』京葉版 昭和48年12月28日 |
64 | 千葉県内 | ナイフ形石器 | 表採、渡辺智信蔵 |
65 | 千葉県内 | 有茎ポイント | 〃 〃 |
次に立川ローム層中に介入する二枚の黒色帯の年代は、『市川市史』によると武蔵野台地西南部では、下部黒色帯が27,500±900、上部黒色帯が17,000±700であり、市川市曽谷三丁目の黒色帯(この地方では一枚に見える)の数値は20,300±600であったが、市川市北国分町堀之内P地点発見のナイフ状石器は、この黒色帯の直上にあったものと報告されているから(註13)、二万年前後のものであろう。