縄文文化の黎明

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 市川市国府台の丸山・同市柏井町今島田・同市大野町殿台・千葉市椎名崎町木戸作の石器や、安房郡富浦町大房岬発見の黒曜石の剥片(フレイク)などは、上部黒色帯より上に堆積した立川ローム層中にあることが確認されたが、このころから次の沖積世初頭(縄文時代草創期)になると、全国的に遺跡数が飛躍的な増加を示すだけでなく、一定の地域に集中する傾向がある(註14)。また石器の種類も用途別に分かれ、立川ロームの終末期には手槍に使用する目的で、柄の先端部にとりつけたと思われる柳葉形尖頭器や有茎尖頭器があらわれて、狩猟生活に画期的な効力を発揮し、次の縄文時代草創期に受けつがれて投槍に変化するように思われる。ナウマン象が日本から姿を消す時期は、この尖頭器(ポイント)の出現のころではなかろうか(註15)。
 立川ローム層終末期(洪積世の末期)の関東地方における植物相の概況は、東京都中野区江古田二丁目から三丁目にわたって、武蔵野丘陵の谷底を構成する山手礫層の上に堆積した、いわゆる江古田針葉樹植物化石層によって知られる。この化石層は地表下数メートルのところにある三枚の泥炭層のうち、最下部の層であって、C14による測定値は、11,840±300と11,300±260であるが、直良信夫はこれを江古田第一泥炭層と呼び、前記市川市丸山遺跡や東京都板橋区茂呂町オセド山遺跡の人々が、谷にのぞんだ台地の端に生活していた時代に、この台地に生育していた原生林が、洪雨などによって洗い流され、浸食谷の底に堆積したものと推定し、この地層からイチイ・アオモリトドマツ・カラマツ・イラモミ・トウヒ・チョウセンマツ・コメツガ・ハンノキ・サワシデ・ブナノキ・ミヅナラ・マルバシモツケの一種、シナノキ・キタヨシ・カヤツリグサの一種、ヌカボシソウ・カキツバタなど二一種の亜寒系植物を検出した。そしてこれらの植物が現在自生する最も近い場所を求めると、奥日光の戦場ケ原付近となる。また垂直分布では富士山の二合目付近に似ていることから、当時の気候は現在よりも平均八~一四度も低く、夏季の気温は最高六度は低かったろうと述べている(註16)。
 しかしこのような寒冷気候は、次の後氷期の時代、言葉をかえていえば、沖積世初頭を迎えるころから徐々に解消する。そしてこの間に、やがて訪れる縄文時代の先駆ともいえる人々が、従来の道具のほかに、投槍、細石器といわれる多目的で便利なもの、ひょっとすると弓矢も使用するようになったかも知れない。更に注目すべきことは、極く粗末な手ずくねの土器を作り、食物を煮たきすることを知ったことである。この土器は、表面に隆線文・隆帯文・爪形文を施したものが、東北から九州にかけて分布するほかに、中部山岳地帯から篦状工具を用いた並行沈線文(櫛目文?)・窩文・内外に縄文をつけたものがあり、北九州からは豆粒文(隆点文)のものなどが知られるようになったが、現時点では発見例も少なく、かつ山間部の洞窟や岩陰遺跡に偏在する傾向があることから、その先後の編年を決定する段階には達していない(註17)。いずれにしてもこの時代は、大陸から完全に切りはなされた日本列島の中で、独自な発達をとげた縄文文化の黎明を告げる時期であった。