海に囲まれた房総半島と花開く縄文文化

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 今からおよそ一万年前、どんよりと曇った陰うつな空があとかたもなく消えて、くっきりと晴れあがった青空のかなたに、白雪をいただく富士山の雄大な姿が、群峯の上に現われた。これまで幾万年ともなく不気味な火を吐き続けていた富士連山の噴煙がようやく下火になったからである。明るい日ざしが関東平野のすみずみにまで、光り輝くようになると、徐々に温暖な気候が訪れて、大地はよみがえり、色あざやかな原生林の中は、鳥や獣(けもの)類の楽園となった。
 相模川、多摩川、荒川、江戸川、鬼怒川、小貝川、那珂川を始めとする関東の諸河川は、急激に水量を増し、谷底を削り、河幅を広めながら、下流に広々とした氾濫原をつくりだした。地質学ではこれ以後の時代を沖積世というが、沖積世の初頭は後氷期の時代ともいい、同時にそれは縄文文化の花開く時代でもあった。そして間もなく海水面がじわじわと上昇して、関東南部では、現在の東京湾の浦賀水道付近にあった海岸線が、古東京川に沿って北方に移動し初めた。また鹿島灘方面から西進した海は北浦、霞ケ浦に入り、更に現在の利根川すじをさかのぼっていった。この入江を鹿島湾と名づけよう。
 このころ、狩猟生活にのみあけくれていた人々の中に、漁撈を始める一群があらわれた。千葉県香取郡神崎町並木の西之城(にしのじょう)貝塚、茨城県北相馬郡利根町の花輪台貝塚、古東京川の沿岸では横須賀市若松町の平坂貝塚、同市の夏島貝塚などをのこした人々は、縄文時代の初頭を代表する漁民である。
2―4表 縄文土器の編年表
関東C14による年代
(B.C.)
草創期<隆線文土器>
<爪形文土器>
<押圧縄文土器>
早期井草
大丸
夏島7,290±500(夏島)
稲荷台
大浦山 花輪台Ⅰ
平坂 花輪台Ⅱ
 
三戸
田戸下層6,443±350(黄島)
田戸上層
子母口5,750±200(虎杖浜)
野島
鵜ガ島台
茅山下層
 
茅山上層
前期花積下層
二ツ木
関山
黒浜 植房3,150±400(加茂)
水子
諸磯a
諸磯b 浮島Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ
諸磯c
十三菩提 興津
中期五領ガ台 下小野
勝坂Ⅰ 阿玉台Ⅰ
勝坂Ⅱ 阿玉台Ⅱ
加曽利EⅠ 阿玉台Ⅲ
加曽利EⅡ
加曽利EⅢ2,563±300(姥山)
加曽利EⅣ
後期称名寺
堀之内Ⅰ
堀之内Ⅱ
加曽利BⅠ
加曽利BⅡ1,680±90(加曽利)
加曽利BⅢ
曾谷
安行Ⅰ
安行Ⅱ1,122±180(検見川)
晩期安行Ⅲa950±140(八幡崎)
姥山台
安行Ⅲc 前浦
杉田Ⅱ
千網
荒海640±150(西志賀)
註 +印は相当する土器が存在するが,いまだ型式として認定されていないものをあらわす。(昭和40年)

(河出書房『日本の考古学Ⅱ 縄文時代』)


 西之城貝塚の発掘報告によると、立川ローム層直上に暗褐色土層、貝層、黒土層の順に堆積し、暗褐色土層から貝層下部に井草式(標準遺跡―東京都杉並区新町旧字井草遺跡)、貝層下部に大丸式(標準遺跡―神奈川県横浜市南区六ツ川町大丸遺跡)、貝層中から黒土層下部に稲荷台式(標準遺跡―東京都板橋区板橋町七丁目旧稲荷台遺跡)の土器が発見された。このことから縄文土器の編年は井草式→大丸式→稲荷台式の順序になると考えられた。そしてこの貝層の主体をなすものは半鹹半淡のヤマトシジミであって、ほかに鹹水産一一種、淡水産三種、陸産四種の貝類があった。つまりこの貝塚は純淡に近い主淡貝塚である。ヤマトシジミは満潮時にわずかに海水が流れ込む沼泥湿地帯や川口に棲むものであるから、西之城貝塚人が住んでいた台地周辺の低地は、こうした状況下にあり、おそらくこの地点の当時の地形は、古霞ケ浦の南東部の沿岸に近い所で、現在の佐原あたりを経て鹿島灘の方向にラッパ状に開口する鹿島湾の最奥部から、さほど遠くない位置にあったろう。次に鹹水産貝類一一種の出土状態を見ると、ごく少量のイタボガキとチヨウセンハマグリ一個が、貝層下部より検出されている以外は、すべて貝層上部より検出されていることから、貝層下部の時期、即ち井草式土器が作られていた時期よりも、貝層上部の時期即ち大丸式や稲荷台式土器の作られていた時期に至るに及んで、その生活圏が多少広くなったことを想わせるとともに、鹿島湾における海進が、やや進行したことを暗示する。
 更に江坂輝弥はこの報告の中で、「本貝塚より、さらに上流へ約二〇キロ余上った利根川左岸、茨城県北相馬郡文村早尾小字花輪台の洪積台上にある縄文文化早期の花輪台式土器を出土する花輪台貝塚では、堆積する貝類の中で最も多いものは、西之城貝塚と同様ヤマトシジミであるが、花輪台貝塚のヤマトシジミは西之城貝塚出土のヤマトシジミに比較すると若干大形のものが多く、花輪台貝塚が堆積された時代には西之城より約二〇キロ奥地でも、西之城貝塚が堆積された当時の西之城付近の低地帯以上に海浸が進捗し、洪積台地を開折してできた小さい谷々にまで、満潮時には潮がさし、ヤマトシジミの成育に好適な場所が至るところに見られるようになったのではないかと想像される。また花輪台貝塚からはハマグリがかなりの量出土し、そのほかマガキ、サルボウ、アカニシなども見出されている(註18)。」という。
 一方古東京川沿岸では、前述の大丸式から稲荷台式土器に対比される土器を最下層に包含する夏島貝塚・平坂貝塚が作られていた。これらの貝類相を見ると、マガキが非常に多く、ハイガイがこれに次ぐ純鹹貝塚で、マグロ・ボラ・クロダイ・スズキ・コチ・ハモなどの骨が多く、骨製の釣針も発見されているところから、すでにこれらの貝塚をのせる丘から見おろす景観は外洋に近い内海であったと想われる。そして、夏島貝塚の第一貝層のカキと木炭によるC14の測定値は、今から9,450±400年前と、9,240±500年前であった(註19)。