このような見方からすれば、関東地方における有楽町海進海退の時期を、縄文文化のどの時期に該当するかという問題の究明は、いくつかの地区に区分して再検討する必要がある。この点に関して最初に見解を表明したのは、恐らく酒詰仲男であろう。彼は昭和十七年に「千葉県下においては黒浜式、諸磯式の貝塚が乏しく、若しありとすれば台麓又は沖積地に存する。この事はこの地方においては西部地域の如き土地の沈降が遅れて厚手期まで続き、その後に至って少しく上昇したに過ぎないことを説明するのではあるまいか。就れにせよ南関東の武相方面のものと、之等常総方面の丘陵とが、各別の地塊運動を行ひつつある事は明かである(註25)。」と。筆者らもかつて、房総半島におけるこのような貝塚分布の特異性は、関東構造盆地の傾動運動と密接な関係があることを指摘したことがある(註26)。房総半島では、その貝塚分布の実情と地質・地形の相違から、奥東京湾東沿岸地区、東京湾東沿岸地区、安房~夷隅地区、九十九里沿岸地区、鹿島湾南沿岸地区(印旛沼・手賀沼を含む)に分けられる。このうち千葉市の大部分は、東京湾東沿岸地区に含まれるから、今回は本地区の海進海退の実像を検討することにしよう。
ここにいう東京湾東沿岸地区とは、東葛飾郡浦安町から君津郡富津市に至る延長約八〇キロメートル余の沿岸で、千葉市を中心とし、扇形に南北に展開する浅海砂泥性の海岸に望む周辺一帯を指し、そこには北西に低く南東に高い三〇~一〇〇メートルの両総台地に水源を発し、樹枝状の谷を開削して下流に沖積平野を開きつつ東京湾に注ぐ中小の河川がある。その主なものは、北方から真間川、海老川、都川、村田川、養老川、小櫃川、小糸川である。この沿岸を、下総台地に面する北半部(市川市から千葉市)と、上総台地に面する南半部(市原市から富津市)に細分し、各時期の貝塚分布を見ると、次のようになる。