北半部

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 本地域を流れる真間川・海老川・都川をはじめ、それ以下の無名の小河川の沿岸では、濃密な貝塚分布を示すだけでなく、その上限貝塚は、河の谷奥に近い台地上に位置する傾向が顕著である。
 例を都川にとって説明すると、本流は千葉市高田町に水源を発し、しばらく北流して川井町付近で向を西方に転じ、旧市街地を貫流して東京湾に注ぐ。延長約一四キロメートル。この川の本・支谷に面して営なまれた大小の貝塚は合計三二カ所である。本流の上限貝塚は誉田町冬寒台にある誉田高田貝塚で、標高四八メートルの台地上にあり、直下の谷の標高は三七メートルである。ここでは貝層下の土層中より少量の加曾利E式、貝層中より多量の堀之内Ⅱ式、貝層最上部からその上の混貝土層中より加曽利B式、表土層より安行Ⅰ式、安行Ⅱ式を出す純鹹に近い主鹹貝塚で、四個の貝塚が半月形に並び、貝塚の主体をなすものはキサゴとハマグリである(註27)。都川の支谷仁戸名谷の上限貝塚は、誉田町一丁目の野田小谷貝塚で、標高四〇メートル、谷標高三〇メートル、加曽利E式、堀之内式、加曽利B式の主鹹貝塚、仁戸名支谷から更に分かれた平山支谷の上限貝塚は、平山町主理台にある長谷部貝塚で、標高四一メートル、谷標高二七メートル、馬蹄形の大貝塚で、貝層下黒褐色土層中より諸磯式、貝層中より阿玉台式、加曽利E式、堀之内式、加曽利B式を出す主鹹貝塚と、北端部の安行Ⅰ式を貝層中に包含する半鹹半淡貝塚からなる。

2―7図 東京湾東沿岸地区の貝塚分布図

 このような傾向は船橋市内を貫流する海老川でも、松戸市に水源を発し市川市内を貫流する真間川本流と、鎌ケ谷市に源を有するその支流でも見られる。すなわち海老川本流には高根木戸北貝塚(中期)・高根木戸貝塚(中期)、同支流には宮前貝塚(後期)があり、真間川本流には松戸市日暮の柏葉台貝塚(中~後期)、支流には鎌ケ谷市の中沢貝塚(中~後期)・猿根台貝塚(後期)などがある。
 次に都川沿岸の早期の土器を包含する都町の向台貝塚は貝層下土層に田戸下層式、子母口式、貝層中に茅山式を含む純鹹貝塚で、ハイガイ七四パーセント、マガキ一三パーセント、ハマグリ五パーセント。貝塚町荒屋敷西貝塚は関山式、黒浜式、諸磯式を、高品町東田貝塚は茅山式を、都町木戸場の木戸場貝塚では、貝層下土層から大丸式、貝層中から黒浜式、諸磯式を出す。これらの貝塚はいずれも標高二〇メートル、谷標高一〇メートルの線上に分布する純鹹貝塚で、都川の下流に展開するデルタの起点付近の台地上に集中する。また都町宝導寺台貝塚は、標高七~四メートルにある純鹹の斜面貝塚で、その下低は沖積層の砂質粘土の上に位置し、貝層の下部から上部にかけて、順次に黒浜式、諸磯式、興津式、十三菩提式、下小野式類似の土器を検出した。なおこの貝層の下半部はマガキ・ハイガイ・ハマグリなどの貝類の石灰分が解けて炭酸石灰となり、互に融着して化石化していた。このことは、海中において貝塚が堆積したのではなく、貝塚が砂質粘土上に堆積した後に貝層の下部が海中に埋没し、その後陸化したことを物語る。

2―8図 都川中下流周辺の貝塚

 都川のこのような早~前期の貝塚分布の傾向は海老川、真間川においても見られるが、特に真間川本流西岸の須和田付近に所在する根郷留見貝塚・諸貝塚下遺跡・久保上貝塚などは、いずれも標高七~五メートル前後の下総下位段丘面上に位置し、根郷留見貝塚では、貝層中に五領ケ台式、諸貝塚下遺跡では黒浜式を伴う方形竪穴住居址が発見され、久保上貝塚では黒浜式、諸磯式、浮島式、興津式が出土した(註28)。このことは、市川市須和田の微高地付近では前期後半の黒浜式から中期初頭の五領ケ台式のころの海岸線が、標高五メートル未満のところにあったことを明確に示すものである。そしてこのことは、海老川や都川沿岸の同時期の海岸線の地理的位置が、ほぼ同様な状況下にあったろうことを推測させる。前記都町宝導寺台貝塚は、この意味において、重要な遺跡であったが、たまたま土木工事の進行中に発見され、緊急を要する発掘作業が極めて制約された条件下に行われたために、この貝塚をのこした縄文人の住居址の所在をつきとめるまでに至らなかったが、彼らが当時の海岸線に近接したところに住居を営なみ、その近くに捨てられた貝塚が、その後の海進によって水中に埋没した時期があったという証拠をのこしている(口絵第八図参照)。