貝塚分布の特色

47 ~ 49 / 452ページ
 以上のように東京湾東沿岸における貝塚分布の内容を調べると、奥東京湾沿岸・東京湾西沿岸・鹿島湾西部地区に見られるような早期末葉から前期前半にかけてのころに、有楽町海進の最盛期があったとする証拠は全くみあたらない。更に東京湾東沿岸地区でも北半部と南半部では、内容にかなりの相違点がある。北半部では、主要河川のみならず無名の細流の沿岸にいたるまで濃密な分布圏を示すこと、前期中ごろの黒浜式から中期初頭の五領ケ台式・下小野式のころの海岸線は、標高五メートル未満にとどまること、主要河川の上限貝塚は中~後期(貝層中に含まれる土器による)のもので、標高三〇~四〇メートル前後の低い谷奥の下総台地上にある。それに対して、南半部では貝塚分布が分散的となり、それも南にさがるほど希薄になること、主要河川の上限貝塚は、北半部と同様中~後期のものであるが、異常に高く標高五〇~七〇メートルとなり、その直下の谷の標高も三五~五〇メートルであって、上流付近には存在せず、中流付近の上総台地上にとどまること、後期の貝塚がまれに標高六メートル弱のデルタの砂丘上にも存在することである。
 東京湾東沿岸地区における、縄文時代のこのような現象は、関東地方における造盆地運動が、下総台地をのせる北半部と、上総台地をのせる南半部とにあたえる地殻変動の相違と、世界的なアトランティック海進すなわち日本における有楽町海進とが交錯して、そこに住む漁民の集落立地に、両者共通する環境もあり、また一面異る環境をも生じたからにほかならない。

2―9図 関東造盆地運動
(大塚弥之助による)