東京湾造盆地運動

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 関東地方の造盆地運動については、前にも触れたように、古くは大塚弥之助が、群馬県大箇野・埼玉県加須市付近の地表下百メートル以上の深さのところに、中部洪積世時代(下末吉ローム層と同時期)の海成層があることを明らかにし、ここを沈降の中心と考え、周囲がこの中心に向って相対的に傾動する撓曲(とうきょく)(たわみまがる)運動を、関東造盆地運動と呼んだが、その後の研究の進展により、この運動の初めは、成田層群の基盤をなす上総層群上部の梅ケ瀬層のころにあること、沈降の中心は二つあり、一つは粟橋・古河付近で、これを古河地区造盆地運動と呼び、他の一つは船橋・千葉付近にあり、これを東京湾造盆地運動と呼ぶようになった。そしてこの二つの運動の母体をなすものが、関東造盆地運動であって、その中心は千葉・船橋付近にあったとさえ主張する学者もいる(註29)。いずれにしても南関東には、第四紀のはじめごろに、関東造盆地運動が起こり、その中央部が下降し、周囲が中心に向って傾斜しながら高まった。古東京湾はこの皿状構造の中に、鹿島灘方向から浸入した海であったが、第四紀の終わりごろに、この造盆地運動は、古河地区造盆地運動と、東京湾造盆地運動に分れた。下総台地やその続きである猿島丘陵の中央部が、南北にわずかに隆起しているのは、そのためであり、これによって古東京湾は東西に分れて一旦陸化した後、有楽町海進によって縄文時代の鹿島湾と奥東京湾~東京湾が出現した。

2―10図 古河地区造盆地運動と東京湾造盆地運動
(貝塚爽平による)


2―11図 関東平野の第四紀層の深さ
(河井興三,1961;菊地隆男,1971による)


2―12図 海成下末吉面の造盆地的変形
(成瀬洋,1966)

 したがって、古河地区造盆地運動と、東京湾造盆地運動とは、相互に密接な関連がある。河井興三は、第二次大戦後、南関東一円のガス田開発のための試錐資料をもとにして、成田層群下部以来の沈降の中心は、千葉市から埼玉県草加市にかけて、北西―南東方向に帯状に広がっており、千葉市・船橋市の臨海では、梅ケ瀬層上限までの深さは、地下千二百メートル、草加市付近では六百メートルであることを指摘した(註30)。このほか、神奈川県相模野南部にも、もう一つの沈降の中心がある。これを相模野南部造盆地運動と呼ぶ。

2―13図 東京湾北部の地下構造(垂直は水平の25倍)
(貝塚爽平による)

 したがって東京湾東沿岸地区の海進現象は、有楽町海進の時期と東京湾造盆地運動との交錯によっておこった地域的な変動であるのに対して、東京湾西沿岸から奥東京湾地区の海進現象は、古河地区造盆地運動と密接な関連がある地域的変動であって、両者を区別することなく、一律に関東地方における有楽町海進を考慮することは誤りである。
 そこで東京湾東沿岸地区、とりわけ、市川市から千葉市にかけての、北半部の海進海退の実像を復原するまえに、成瀬洋がまとめた千葉市付近の沈降量を見ると、梅ケ瀬層上限以前の沈降速度は、千年につき〇・五メートル以下であるが、成田層堆積以降有楽町層までは一・一~一・三メートルの間を上下している(註31)。つまり一万年当たり約一二メートル、一年当たり一・二ミリメートルの割で沈降していることとなり、現在に近ずくほど沈降量が増大する。そして、これは現在も続いているものと推測される。このことは、逆に成田層の堆積した二十数万年前には、今よりも数十メートル高く、有楽町層の時代でも数メートルは高かったはずである。