東京湾東沿岸の海進海退

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 有楽町海進は、今からおよそ一万数千年前、浦賀水道に入っていた東京海底谷から、古東京川の低い谷に沿って、かなり速い速度で北上を続け、今から五千~六千年前に海進の最盛期をむかえた。東京湾西沿岸から奥東京湾の沿岸では、標高五~一〇メートル未満のところが汀線となったから、三浦半島沿岸・多摩川・鶴見川・荒川・江戸川流域では、支谷のかなり奥まで海水が浸入してリアス式地形となり、栃木県下都賀郡藤岡町の遊水池にも、満潮時には海水が流入し、これらの沿岸台地には縄文文化早期末から前期にかけての集落が営なまれ、多くの貝塚をのこした。東京湾東沿岸でも、もちろん当時の標高五~一〇メートル未満のところが海岸線であったが、市川市須和田の久保上貝塚は、現在標高五~七メートル前後のところにあって、貝層の厚さは一〇~五〇センチメートルほどあり、貝層中に前期後半の遺物が発見されているから、この沿岸は現在の標高五メートル未満(当時の標高はこれより数メートル高い)のところに、前期の汀線があったものと見てよかろう。したがってこの時期の東京湾東沿岸の北半部の景観は、西沿岸のリアス式海岸とは全く異り、単調な曲線を描いた砂浜が続き、そのうしろにのっぺりとした下総台地が控えていた。海岸の小高い砂丘の上か、低い台地の裾あたりに漁民集落が多く、台地の上には狩猟民と少数の漁民が集落を構えていたはずである。
 その後、東京湾西沿岸から奥東京湾にかけての沿岸では、徐々に海退現象がおこり、人々は後退する汀線を追って前方に移動をくりかえした。それは前期末葉~中期初頭のころからであろう。横浜市金沢区の称名寺貝塚は標高五メートルの砂丘上にあり、表土下一メートル弱のところから中期初頭の五領ケ台式土器が発見されているところから(註32)、この辺の海岸線は当時四メートル未満のところまで後退し、もはやリアス式海岸は全く消えて、遠浅な海岸にかわっていたことがわかる。
 一方東京湾東沿岸の北半部では、東京湾造盆地運動に伴なう地盤の低下によって、海水の浸入がはげしくなり、中期のころに海進の最盛期をむかえた。こうして下総台地のいたるところに溺谷があらわれ、人々はこのリアス式海岸の周辺台地に移り住み、遠浅で干満差のはげしい波静かな海の、豊かな幸と、後背の原生林に棲む山の幸・野の幸を追って、ながい定住の生活を続けた。ではこのころの千葉市付近の海岸線は現在の標高何メートルのところであったろうか。千葉市桜木町にある加曽利貝塚をのせる台地の直下にある都川の支谷(古山支谷)の試錐の結果によると、そこには海成の砂層が全然ないということである(註33)。しかし、都川沿岸の海成層をつきとめるためには、より広範囲な試錐を行い、その結果を綜合して、慎重に判断を下すべきものと思う。前述のように、有楽町層堆積以降の、千葉市付近の沈降量が、千年につき一メートル強であったとすれば、そして奥東京湾中にあった埼玉県草加市付近における沈降量が、これよりはるかに少なかったとするならば、都川の運ぶ土砂の堆積量を差引ても、海進の最盛期には、少なくとも、標高一〇メートル強のところに、海岸線があったものと推定されるからである。東京湾東沿岸の北半部に分布する中期から後期前半の堀之内式までの土器を包含する貝塚は、それ以前の時期の貝塚よりも、またそれ以後の時期の貝塚よりも、鹹度が高く、分布範囲も各主要河川の谷奥から谷口にいたる周辺一帯の台地にかけて、最も濃密な分布状況を示していることは、海進の最盛期が中期にあり、後期前半の堀之内式のころまでは、海面がそのまま停滞していたことを立証する他の側面である。
 海退のきざしは、中期中ごろの加曽利B式の時期に起こり、極めてゆるやかに進捗した。それは、低い下総台地を侵蝕してゆったりと流れる河の堆積作用が、土地の沈降速度を上まわるには、かなりながい歳月を必要としたからであろう。これに対して、南半部は、東京湾造盆地運動の影響が少なく、関東造盆地運動による単斜構造の、高い上総台地から流れる河の堆積作用が多いために、下流に広いデルタ地形を形成し、北半部に比較して海退の速度が、早かったことと思われる。
 市川市から千葉市に至る縄文時代の海進海退の実像が、以上のようであるとすれば、この沿岸に早~前期の貝塚が、東京湾西岸地区から奥東京湾沿岸地区にくらべてきわだって少なく、中~後期の貝塚が爆発的に集中し、中には世界屈指の大貝塚として知られる加曽利貝塚や、長谷部・草刈場・犢橋貝塚、船橋市高根木戸貝塚、市川市姥山・曽谷・堀之内貝塚などのように、環状または馬蹄形の大貝塚も少なくないという、一見不可思議に思われる現象の解答も、極めて容易に解決される。すなわち、早~前期の貝塚が少ないのは、この時期の漁民集落自体が少なかったのではなく、彼らの集落立地の多くが沖積低地にあったために、その後の海進海退によって流失したものが多く、中には砂層中に埋没したものすらあるためであり、中~後期の貝塚が爆発的に多いのは、沖積低地に住んでいた早~前期の人々が、海進の進行に伴ない、台地上に移動して、中期から後期にわたる二千年近くもの長期間、そこに定住し、原始共同体的生活を営なみ、加えて人口の自然増があったからにほかならず、決してこの時期に及んで、他の地方に住んでいた人々が、何らかの事情、例えば食糧資源の採集が限界に達したことなどの理由によって、彼らが移住地を選択した結果、突如として集団来住する者の数が、急激に増加したためではない。