奥東京湾東南部の海進海退

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 千葉・船橋市沿岸に沈降の中心をもつ東京湾造盆地運動の影響は、今まで述べてきた地域のみならず、これと隣接する松戸市の周辺にも及んでいる。松戸市は奥東京湾の東南部に面するところであるが、本市内に分布する多数の貝塚群を概観すると、早~前期の貝塚は北部に多く、更に北上して流山市から、関宿町に行くにしたがって増加する。これは、古河地区造盆地運動の影響が、北上するにしたがって濃くなるためである。次に松戸市内の前期の貝塚を調べると、前半の関山式を出土する貝塚よりも、後半の黒浜式の貝塚の方が、更に谷奥に分布する。中~後期の貝塚は南部に多く、「その立地箇所が、前期の遺跡群よりさらに谷の奥深いところとなり、いわゆる奥貝塚の典型的なものが多くなる」(註34)。後期前半の「堀之内式土器は出土量も多く、遺跡数も多いが、現東京湾にみられるような、おびただしい貝をのこし、馬蹄形ないし環状の貝塚は、ほとんどみられない。やや、大規模な貝塚である貝ノ花・河原塚・殿平賀などの貝塚にしても、現東京湾岸の大規模なものとは、比較にならないほど、貝の量は少ない。すなわち、遺跡数は多いが、採貝の条件は、現東京湾岸ほど有利ではなかったことになる」(註35)。
 前記貝ノ花貝塚は、昭和三十九~四十一年に完掘された松戸市内の谷奥にある代表的な馬蹄形貝塚で、奥東京湾の東南岸、松戸・流山両市の境を貫流する坂川の一支谷、栗ケ沢支谷(仮称)に面する西側の台地上に位置する。この貝塚から、坂川が江戸川に向って開口する幸田地区までの距離は約四キロ余である。貝塚の標高二八メートル、直下の谷表面は一五メートル。この谷の柱状断面図によると、谷底は一〇メートルで、谷表面までの間は、ほとんど均質の腐植土層であること、この貝塚から発見される土器で貝層を伴わないものは、前期後半の関山式ないし黒浜式(少量)、同期末葉の浮島式(少量)、中期前半の阿玉台式、晩期の大洞B~A式(少量)であること、栗ケ沢支谷で本貝塚から最も近い前期の土器を貝層中に包含する貝塚は、二キロ弱降った根木内殿内貝塚であること、本貝塚の貝層は主鹹性貝類の堆積が中期後半の加曾利E式期に開始され(ハマグリ三四パーセント、サルボウ二八パーセント)堀之内式(ハマグリ三八パーセント、サルボウ・アサリ各一一パーセント)、加曽利B式(ハマグリ一八パーセント、シオフキ一七パーセント)、曽谷・安行Ⅰ式(マガキ二〇パーセント、ハマグリ一八パーセント)まで続くが、晩期の安行Ⅱ~ⅢC式になると主淡性貝層(ヤマトシジミ五四パーセント、ハマグリ一二パーセント)に変わることなどを綜合すると(註36)、前期のころの栗ケ沢支谷の上限貝塚は根木内殿内貝塚どまりであるから、この時期の海進は谷標高五メートル弱にとどまっていたが、その後海進はますます進み、中期後半には貝ノ花貝塚や貝ノ花B地点貝塚(中・後期)、栗ケ沢貝塚(中・後期)から見降ろす谷標高一〇メートル辺りまで達し、加曽利B式以後徐々に海退し、安行Ⅱ~ⅢC式のころには湿地帯に変わり、満潮時にわずかに海水が流入して、ヤマトシジミが棲息する場所が近くにあったことを推測させる。このことは、東京湾造盆地運動が、奥東京湾東南部をなす松戸市の北半部にも、意外に大きな影響を与えていることを実証するものとして注目される。