すなわち、早期後半の遺跡ではハイガイが最も多く、マガキがこれに次ぎ、前期ではマガキ・ハマグリ・ハイガイの順となり、中期より後期にかけてハマグリ・イボキサゴ・シオフキなどを主要なものとし、晩期にはヤマトシジミが多く発見される。これは彼らの嗜好の変化によるよりも、むしろ湾内の状態がこのような種類の貝の生息に適するように変わってきたことを示すものというべきであろう。
摘要 編年 | 東京湾造盆地運動 | 有楽町海進海退 | 貝塚 | 最も多い貝類 |
早期前半 | 沈降 (千葉・船橋沖) | 沈降海進開始時代 | ? | ? |
早期後半 | 同 | 沈降海進進捗時代 | 主鹹 | ハイガイ・マガキ |
前期 | 同 | 同 | 純鹹 主鹹 | マガキ・ハマグリ・ハイガイ・シオフキ |
中期 | 同 | 沈降海進極盛時代 | 純鹹 主鹹 | イボキサゴ・ハマグリ・シオフキ・アサリ・サルボウ |
後期 | 同 | 沈降海進停滞時代~デルタ・ラグーン形成海退時代 | 主鹹 | 同 |
晩期 | 同 | デルタ・ラグーン形成海退時代 | 主淡 | ヤマトシジミ・ニホンシジミ・ハマグリ・アサリ |
筆者はかつて茅山式土器を主体とする都町向ノ台貝塚の貝の種類を調べた結果、総数二三種を認めたが、そのうちハイガイ七四パーセント、マガキ一三パーセント、ハマグリ五パーセントその他八パーセントという数字を得た(註37)。マガキは淡水の流入する暖海を好み、岩礁性海岸に生育するのが通例であるが、当時の市内の海浜には、このようなところはなかったはずであるから、恐らく流木の溺谷の中に立ち腐れになっていた樹木の枝やほかの貝類などに付着していたものであろう。ハイガイの北限は現在日本海では北緯四〇度、太平洋では北緯三五度までと考えられ、館山湾にもわずかに生息するといわれる暖海性の美味な貝で、水温平均二〇度前後を好み、水流が緩慢で、風波の少ない、しかも淡水の絶えず注入する軟泥の多い浅海で、満潮時の水深一~二尋、干潮のときは二~三時間干上る処に限るという特異な諸条件を必要とする。したがってこの貝類を出土する遺跡の分布を調べると、当時の沿海の状況が推測されるわけで、早期のころには函館付近(住吉遺跡)まで生息していたが、千葉市付近では中期、東北の太平洋沿岸及び利根川流域では後期、奥東京湾と西方沿岸では晩期、印旛沼では前期、相模湾では晩期を境として絶滅したものらしく、今日の東京湾では全く生息を聞かない。千葉市付近は早期に最も多く、前期になると急激に減少してマガキ・ハマグリ・シオフキ・アサリなどが多くなり、中期では都川北側地区の貝塚から僅かに検出される程度である。このことは、早期のころの千葉市の沿岸は、最もハイガイの生育に適当な暖海性水温を維持し、かつ瀬戸内海沿岸ことに岡山県児島湾八濱海岸におけるかつてのハイガイ養殖場や九州有明海の如き自然的諸条件を備えていた場所が、湾内の所々にあったことと、前期以後次第に水温の低下と海底状況の変化その他の事情のために、この種貝類の生育に適しない状態となり、ハマグリ・イボキサゴ・シオフキ・アサリ・バカガイ・ツメタガイ・ウミニナ・マテガイなど、京葉臨海工業地帯造成前の、千葉の海に見られたものとほとんど変わらない貝類が、急激に繁殖したことを意味する。しかし、当時の海は、平坦な海岸線の続く単調な海ではなく、樹枝状に入りくんだリアス式の海であった。
2―14図 ハイガイ
この浅海砂泥性の海には、両総台地の基盤をなす成田層群やその下の上総層群中に含まれる、多くの化石貝層を濾過して湧き出る、炭酸カルシウム分の多い水を集めているから、貝類のみならず、魚類の生育にも理想的な場所である。それ故、今日よりはるかに人口の密度の低い、しかも原始的な漁獲法では、毎日いくら獲っても、限界に達するような心配は絶対になかったことだろう。当時の漁民にとって、東京湾東沿岸ほど住みよい土地はほかにはなかった。このことが、この沿岸に最も多く貝塚が集中する一つの理由でもある。彼らが捕食した魚類を見ると、加曽利貝塚(桜木町)では、クロダイ・マダイ・ヘダイ・マアジ・ボラ・スズキ・コチ・ハゼ・フグ・トチザメ、高田貝塚(高田町)ではマダイ・スズキ・コチ・ボラ、築地貝塚(長作町)ではマイワシ・マアジ・スズキ・クロダイ・マダイ・コチ・フグ・ナヌカザメなどが報告され、犢橋貝塚(犢橋町)ではマアジやサバの骨がブロック状に堆積していたという。このほかカニ・シャコ・スミイカといった軟体動物やサケ・マス(註38)なども漁獲したことであろう。右のうち、マダイ・ヘダイ・サバ・サメ類は外洋性漁類であるが、潮流の異変などが原因で内湾に入りこんだためでもあろうか。月之木貝塚(仁戸名町)・東寺山貝塚(東寺山町)からは鯨の背椎骨が、加曽利北貝塚・蕨立貝塚(坂月町)からは鯨の肋骨に加工を施こしたものが出土しているし、昭和二十六年千葉港浚渫作業中に、縄文時代のものと推定される鯨の背椎骨が発見され(註39)、市原市堀込貝塚からは同じく鯨の背椎骨に皿状の加工を施こしたものが、松戸市貝ノ花貝塚からはクジラとシャチの骨が出土していることなどを参考にすると、中~後期の内湾は、今日よりも外洋性海流の影響を受けやすい状態にあったことが想定される。
2―15図 月ノ木貝塚出土の鯨骨と土器(加曽利E式)
2―16図 千葉港出土の鯨の脊椎骨,蕨立貝塚出土の鯨骨製品
園生貝塚(園生町)・犢橋貝塚は小さな川の上限貝塚であるが、晩期の土器を包含するヤマトシジミの貝層があるらしい。また花見川下流鶴牧支谷の開口部には、いわゆる検見川の泥炭遺跡(朝日丘町)があり、そこから発掘された三隻の丸木舟に伴う六本の櫂の彫刻手法は、後期又は晩期のものと考えられている(註40)。これらは登戸~検見川間の下総台が海岸にせまり、そこを開削してゆるやかに流れる川の堆積作用が不活発なために、海退が進捗した時期においても、これらの川口は依然として海水の流入が盛んであったからであろう。
加曽利貝塚から発見された陸上動物では、ニホンジカ・イノシシ・タヌキ・ノウサギ・アナグマ・サル、蛇、鳥類ではカモ・キジ、高田貝塚ではニホンジカ・イノシシ・イヌ・タヌキ・サル・キジ、築地貝塚ではニホンジカ・イノシシ・サル・キジ・カモが知られ、中でもイノシシと雄鹿が最も多く捕獲された。これについて江坂輝弥は次のように述べている。「貝塚から出土する鹿の頭骨は、ほとんどすべて角座のあるもののみである。また鹿の幼獣の骨もきわめて少ない。彼ら縄文土器文化人には大酋長会議のような集まりがあって、縄文土器文化圏の全域に牝鹿を捕獲してはならぬという規約を徹底させたものであろうか。猪は、牡(おす)に鹿のような角がないうえに、山野を疾駆する場合、幼獣でもつれていないかぎり、牝であることを確認することが比較的困難であったためか、また繁殖力が旺盛のためか、牝猪の下顎も貝塚からかなりの量出土する。それでも、牡猪の顎数に比較すると、量的にはすくないようである」(註41)。市内の貝塚では今のところ絶滅種の発見を聞かないけれども、松戸市貝ノ花貝塚・市原市西広貝塚・同市上高根貝塚・富津市富士見台貝塚・館山市鉈切洞窟遺跡からはホンドオオカミの骨や牙が出ているし、現在北朝鮮・満州・シベリヤに住むオオヤマネコの骨が、市原市西広貝塚・成田市荒海貝塚の晩期の土器に伴って出土し、佐原市の底湿地から上顎犬歯に穿孔を施こした垂飾品が発見されているということであるから(註42)、市内にもこれらの怖ろしい動物が住んでいた可能性もある。
次に当時の陸上における植物景観についてはほとんど明らかでない。ただ亘理俊次が加曽利貝塚で出土した一九点の木炭について調べたところでは、一五点がクリ、三点がエノキ、一点がカヤであった(註43)。また、山内文が検見川の泥炭遺跡出土の丸木舟と櫂について調査した結果によると、丸木舟はカヤ、櫂はイヌガヤであった(註44)。しかし、昭和二十三年(一九四八)慶応大学の手で発掘した安房郡丸山町大字加茂字神門(みかど)の低湿遺跡(黒浜式~諸磯式)出土の人工遺物(丸木舟、櫂、弓その他)によると、このあたりの林相は、モミ・イヌガヤ・カヤ・マキなどの針葉樹と、シイ・マテバシイ・アカガシ・アラカシなどの常緑性濶葉樹と、アカシデ・クリ・コナラ・ムクノキ・エノキ・ケヤキなどの落葉性濶葉樹との混生した温暖帯林と推定され、今日の房総南部とほとんど変化がないことを示していた(註45)。
2―17図 検見川泥炭遺跡出土の丸木船と櫂 (『加茂遺跡』)
一方直良信夫は当時の気候と植物相との関係について次のように述べている。「史前日本の始め頃はまだ相当前の暖かさが残っていた時代だったのである。然るに関東地方に縄文文化が盛行するに及んだ頃―つまり縄文文化期の中頃から後期にかけて―には、地上の景観は前代及び今日のそれと大分その趣を異にしていて、関東地方は今の東北地方の延長をみるような植物相をもっていたのである。即ちその代表種であるトチノキやクルミが関東の大部分を覆うて繁茂して居り、有楽町層と日本新石器時代に貝塚をつくらせた海はずっと遠退いたろうが、概して寒い日が続いたことと思われる。(註46)」恐らく早期から前期のころは比較的温暖で中期から後期のころ、即ち千葉市付近では、海進が最盛期に達していたころは、最も寒冷な時期であったろう。しかし後期の加曽利B式の住居址を見ると、従来の深い竪穴式から浅い竪穴式に向う傾向を示し、防寒というよりもむしろ通風に主眼点を置き変えつつあったことを示しているから、或いはこの前後から―海退開始時代―徐々に気温の上昇を見て、晩期のころになるとほとんど現在の気候と大差ないまでになったことのように思われる。
(武田宗久)
【脚註】
- 明石原人、葛生原人、牛川人は中期洪積世、浜北人・三ケ日人・帝釈峡人は後期洪積世という説がある。
- 九州と四国が本州と分離し、瀬戸内海が成立したのは、さらに後のことである。
- 大塚弥之助『日本列島の生ひたち』三七~三九ページ、昭和二七年
- 與世里盛春『房総の生ひ立と世界』四四ページ、昭和二五年
- 相沢忠洋「岩宿遺跡の発見」『世界史大系』月報一二号
- 関東ローム研究グループ『関東ローム・その起源と性状』昭和四二年
- 杉原重夫「下総台地西部における地形の発達」『地理学評論』四三巻一二号、昭和四五年
- 芹沢長介編『星野遺跡』昭和四三年
- 最大海退時の河口は、東京湾口では現在の水深約百メートルからはじまる東京海底谷の谷頭にあった。吉川虎雄・杉村新・貝塚爽平・太田陽子・阪口豊『新編日本地形論』一四七ページ、昭和四八年
- 千葉県内の発見地は野田市目吹、利根川川原、香取郡下総町猿山、市川市高谷新町富士航運、印旛郡印旛村瀬戸、佐倉市御戸(ごうど)・萩山、木更津市中尾・清見台。
- 亀井節夫『日本に象がいたころ』一八四ページ、昭和四二年
- 千葉県北総公社文化財調査第二班『三里塚』一五ページ、昭和四六年。関東地方では、このほか群馬県勢多郡宮城村赤城桝形、埼玉県浦和市白幡沼上、東京都下小金井町の諸遺跡は、これに近いころのものであろう。また全国的に見ると、北海道(白滝・置戸・樽岸)、福島県(成田・原町市第二小学校敷地)、長野県(茶臼山・野尻湖底・菅平)、岡山県鷲羽山、香川県城山、大分県岩戸などが主なものである。
- 『市川市史』第一巻、三五~三六ページ、昭和四六年
- 千葉県下では松戸、市川周辺、印旛郡印西町、八街町、成田市、山武郡芝山町周辺、夷隅郡勝浦市須野原付近はよく知られている。
- 長野県上水内郡野尻湖畔立ケ鼻の湖底遺跡では、ナウマン象とオオツノジカの化石が発掘されたが、オオツノジカの骨に加工を施した尖頭器?を伴出したと伝え(『国土と教育』No.二〇、昭和四八年。)、瀬戸内海の小豆島南方沖の海底約七百メートルのところから引きあげられたナウマン象の牙に加工を施したと推定されるものがあったともいう(『朝日新聞』昭和四八年三月三〇日)。
- S. Miki, On the change of flora of Japan since the Upper Pliocene and the fioral composition at the present. Japanese Jou. Botany, Vol, Ⅸ, No. 2, pp. 228~231. 1938. 直良信夫『日本旧石器時代の研究』二五三~二六〇ページ、昭和二九年
- 関東地方の隆線文系土器出土の代表的遺跡としては、栃木県宇都宮市大谷寺(おおやでら)洞窟最下層、群馬県新田郡西鹿田(さいしかで)遺跡、埼玉県秩父市上影森橋立観音堂岩陰最下層があり、千葉県印旛郡印旛村瀬戸遺跡では隆線文・爪形文・無文土器が出土しており、全国的にみると、東北から四国・北九州にかけて発見されている。このほか新潟県小瀬ケ沢洞窟の窩文・箆状並行沈線文土器、長野県南佐久郡栃原岩陰最下層や岐阜県糀ノ湖(はなのこ)遺跡の糀ノ湖文土器(縄文系)、長崎県佐世保市瀬戸越町泉福寺第三・第四洞窟の豆粒文土器(隆点文土器)などがある。
- 西村正衛・芹沢長介・江坂輝弥・金子浩昌「千葉県西之城貝塚」『石器時代』二号、昭和三〇年
- 杉原荘介『夏島貝塚』昭和三九年
- 湊正雄・井尻正二『日本列島』第二版、二七~三〇ページ、昭和四一年
- 杉村新「関東南部の沖積世に関する諸問題」『石器時代』、三号、昭和三一年。和島誠一・松井健・長谷川康雄・岡本勇・塚田光・田中義昭・中村嘉男・小宮恒雄・黒部隆・高橋健一・佐藤孜「関東平野における縄文海進の最高水準について」『資源科学研究所年報』、七〇年度、昭和四三年
- 江坂輝弥「海岸線の進退から見た日本の新石器時代」『科学朝日』通巻一五三号、昭和二九年。同「沖積世の海浸・海退運動に関する一考察」『石器時代』二号、昭和三〇年
- 館山市付近はその好例で、当時の海岸線周辺の高台に深名貝塚(茅山式)、谷向貝塚(子母口式・茅山式)、稲原貝塚(田戸上層式・子母口式・茅山式)、出野尾貝塚(諸磯式)など、早~前期の貝塚がある。
- 関東地方以外でこのような現象が見られる地域は、八戸地区(馬淵川・新井日川沿岸)、旧仙台湾(北上川・阿武隈川沿岸)、瀬戸内海中央部などが知られている。また中期海進の例としては、石川県、富山県北部、濃美平野、晩期海進は秋田県にあるという。山内清男「縄文土器の改定年代と海進の時期について」『古代』四八号、昭和四二年
- 酒詰仲男「南関東石器時代貝類相と土器形式との関係に就いて」『人類学雑誌』五七巻六号、昭和一七年
- 武田宗久「縄文式時代の自然」『千葉市誌』二四~二八ページ、昭和二八年。伊藤和夫「貝塚より見た千葉市附近の海進海退」『古代』二八号、昭和三三年
- 学習院高等科史学部『誉田高田貝塚』昭和三〇年
- 杉原荘介「須和田遺跡に於ける二縄文式貝塚」『老古学』九巻五号、昭和一三年。『市川市史』一六〇~一六九ページ、昭和四六年
- 貝塚爽平『東京の自然史』一七一~一七二ページ、昭和三九年
- 河井興三「南関東ガス田地帯についての鉱床地質学的研究」『石油技術協会誌』二六号、昭和三六年
- 成瀬洋「関東地方における第四紀地殻変動」『地質学論集』二巻、昭和四三年
- 吉田格「横浜市称名寺貝塚」『東京都武蔵野郷土館調査報告書』第一冊、昭和三五年
- 杉原荘介『加曽利貝塚』一三~一四ページ、昭和四一年
- 「縄文式時代の松戸」『松戸市史』上巻、三五三ページ、昭和三六年。
- 同三五六~三五七ページ
- 八幡一郎ほか『貝ノ花貝塚』昭和四八年
- 千葉県立千葉中学校々友会郷土研究クラブ「千葉市都町向ノ台貝塚の発掘に就て」『かつらぎ』復刊号、昭和二二年
- 山内清男「日本先史時代概説」『日本原始美術』Ⅰ、一四二~一四四ページ、昭和三九年
- 武田宗久「社会と宗教」『千葉市誌』五九ページ、昭和二八年
- 松本信広「上代独木舟の考察」『加茂遺蹟』八五~九六ページ、昭和二七年
- 江坂輝弥『日本文化の起源』八五~八六ページ、昭和四二年
- 金子浩昌「千葉県君津郡天羽町富士見台貝塚」『古代』四二・三号、昭和三九年。同「狩猟の展開」『古代史発掘』二巻、一三一ページ、昭和四八年
- 杉原荘介『加曽利貝塚』二九~三〇ページ、昭和四一年
- 山内文「発掘丸木舟及び櫂の用材に就いて」『人類学雑誌』六一巻二号。検見川の丸木舟の発掘は昭和二十三年のことであったが、植物学者大賀一郎は、昭和二十六年三~四月にかけて「丸木舟の出土した場所から五〇メートルばかり東北によった未掘の新たな場所」で、地下二〇尺(六メートル六センチメートル)の泥炭層下の青色粘土層から三箇の蓮の実を検出し、そこが地下温度摂氏一二度であったので、蛋白質の凝固と温度との関係をあらわす実験公式にあてはめて、一七〇〇~一八〇〇年という数値を算出したことから、大約二千年前のものとした。この蓮の実は五月上旬に発芽試験を行った結果、一箇が発芽して、翌二十七年七月十八日みごとな淡紅色の花をつけた。その後千葉県文化財保護委員会はこれに「大賀蓮」と命名した(大賀一郎『ハスを語る』昭和二九年)。
- 亘理俊次・山内文「加茂遺跡の木質出土品に就いて」『加茂遺蹟』一一九~一二四ページ、昭和二七年
- 直良信夫『古代日本の漁猟生活』三一~三二ページ、昭和二一年
2―18図 大賀ハス