1 縄文時代以前の遺跡

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 縄文時代以前の時代を考古学上では「先土器時代」と呼称している。
 この呼称は、「土器」の存在の有無を基準としており、後続する「縄文式土器」を有する「縄文時代」に先行する時代とされ、「土器」の存在しない文化の時代(旧石器時代)として把握されている。
 この、わが国における「旧石器時代」の呼称が、後続する「土器」を有する「縄文時代」を基準として、さかのぼった視点で把えた「先土器時代」とされているのは、この時代の研究が、縄文時代の研究にくらべて、大幅に遅れて出発していることを示している。
 更に、この「先土器時代」という呼称には、わが国における「縄文時代以前の文化」が「確実に旧石器文化」であるかどうかということに対する疑問をも含めているのである。
 わが国における旧石器時代の研究については、戦前においてもその存在の有無が論じられてはいたが、なお確証を得ることができず、その存在は否定されていた(註1)。
 ところが、戦後、昭和二十四年に至って、群馬県岩宿遺跡において、「縄文時代以前の文化」の存在が確認されるに及んで(註2)、以後、急速にその研究が進展してきたものである。
 千葉県においても、幾多の考古学的調査・研究が行われてはきたものの、その主眼は膨大な数と規模を誇る貝塚の研究に注がれ、関東ローム層中の先土器文化へ目が向けられることはほとんどなく、各地に資料の存在が報告されるようになったのは最近のことである。
 千葉市においてもその例にもれず、現在までに先土器時代の遺跡として確認さたれものは皆無といえる。
 そのような中にあっても、最近の土木工事に伴う関東ローム層の掘削などにより露出したと思われる石器類が採集されつつあり、千葉市における先土器時代の文化も、これから明らかにされようとしている。
 市内における先土器時代のものと思われる遺物の発見地は二―三表にあげられているとおりである(No.22~No.32)が、ほかに、未確認ではあるが、二~三カ所の発見地が新たに伝えられている。

2―19図 千葉市内における先土器時代の遺物発見地

 それらのうち、実物あるいは報告書などにより遺物の概要を知ることのできるのは九カ所(No.24~No.32)から発見されたものであるが、先土器文化の探求を目指して行われた発掘によって採集された遺物は皆無であり、過去に資料紹介などで報告されている遺物は四例のみで、他はすべて各所に保管されている表採遺物を集成したものである。
 更に、これらのうち、ローム層中からの出土を確認して摘出したものは、No.32の椎名崎町木戸作遺跡出土例のみである。次に、これらの遺物について見てみたい(番号は二―三表・二―一九図に掲げた番号を示す)。
 
24 木葉形尖頭器(作草部町 正善院裏遺跡出土(二―二〇図1)
 正善院裏の崖の近辺より採集したと伝えられる(註3)。
 一端を約四分の一ほど欠き、現存部の長さ五九・〇ミリメートル、最大幅二五・六ミリメートル、最大厚九・六ミリメートルを数える。
 ほぼ左右対称で、比較的幅のせまい木葉形を呈し、いわゆる「柳葉形」に属するものと考えられ、横断面は、一方が扁平で、他がふくらみをもつ片面加工の状態をよく残している。概して厚手の感をうける。
 素材は安山岩質のものとみられる(註4)。

2―20図 千葉市内発見の先土器時代の遺物(ただし,No.5=大草町外野遺跡)

 
25 掻器(高品町 高品A地点遺跡出土)
 京葉道路の建設によって破壊される同遺跡の、事前発掘によって出土したものである。
 報告書によれば、チャート製の掻器で、表面には自然面を残し、先端部には入念な調整痕が見られ、主剥離は基部を打面としている。
 表土層からの発見で、先土器時代のものとする断定はされていない。
 実測図によれば、長さは約四・五センチメートル、幅三センチメートルである(註5)。
 
26 有茎尖頭器(貝塚町字耳切 耳切遺跡出土(註6))(二―二○図4)
 草刈場貝塚の北方約三百メートルの畑から発見された。この畑は、周囲の畑に比べて、ローム土が表面に多く露出しているのが見える。おそらく、この畑で「天地返し」が行われた際に、本資料が露出したものと考えられる。
 先端と茎部を一部欠損しているが、現存部の長さ五〇・八ミリメートル、最大幅一九・五ミリメートル、最大厚六・八ミリメートルを数える。刃部の両辺は、ほぼ対称に緩い弧を描き、細かい鋸歯状に整形されている。横断面は、一方がわずかに扁平なレンズ状である。
 素材は粘板岩ないし頁岩とみられる(註7)。
 
27 ナイフ形石器(貝塚町 車坂遺跡出土)
 高品A地点例と同じく破壊前発掘によって発見された。
 報告書によれば、「チャート製のナイフ形状石器」とされている。
 第四号住居址(古墳時代前期、和泉期)の中から発見される。時期判別は不能とされている。
 実測図によれば、長さ約四・五センチメートル、最大幅約二・六センチメートルである(註8)。
 
28 尖頭器(都町 兼坂遺跡出土)
 車坂遺跡例と同じく、破壊前発掘によって発見された。
 報告書によれば、尖頭器とされ、一端を欠失し、両面加工で、片面は両側面から剥離されているが、他面は一方側面からの剥離が強く、やや粗雑である。石質はチャートである。表土層からの出土であるが、先土器時代の所産とされている(註9)。
 
29 有茎尖頭器(桜木町字大作 加曽利貝塚西北方約五百メートル付近出土)
 畑より発見された。紹介者によれば、
 「本器は茎部をわずかに欠損しているが、現存する部分の長さは五四ミリ、最大幅一八ミリ、最大厚六ミリで、全面黄褐色のパティナにおおわれたホルンフェルス製である。両翼がわずかに丸みを帯びつつ、身部から基部へ移行する本器は、鋭い先端と、浅く細かく鋸歯状に調整された両側縁とを有するが、石材の関係からか、主に片面加工である。しかし裏面先端部のみには、顕著ではないが、わずかに剥離痕が認められる」とされている(註10)。
 
30 有茎尖頭器(坂月町 蕨立貝塚G地点付近出土(註11))(二―二〇図2)
 昭和四十一年に同貝塚の発掘調査が行われた際、そのG地点の周辺で発見された。このときすでに、同貝塚の表土はブルドーザーによってかなり削り取られており、原位置及び層位の確認は不可能であった。
 形態は、前記26及び29の有茎尖頭器と同様であるが、側縁の張りは少なく、若干細型である。素材は変成岩ではあるが(註12)表面の風化が進んでいて判別することができず、また剥離痕もほとんど見ることができない。
 完形品と見ることができ、長さ五九・三ミリメートル、最大幅一六・三ミリメートル、最大厚五・七ミリメートルを数える。横断面は、ほぼ菱形になっている。
 
31 木葉形尖頭器(大草町外野遺跡出土(註13))(二―二〇図5)
 同所一帯において、坂月ニュータウン(千城台団地)の造城工事が行われた際に露出したものと推定される。
 ほぼ完形品であるが、両端をわずかに欠くのが惜しまれる。現存部の長さ六四・二ミリメートル、最大幅二四・九ミリメートル、最大厚六・九ミリメートルを数え、前記の作草部町発見例よりも幅広く、扁平である。素材は粘板岩と見られ(註14)、剥離痕はあまり明瞭ではないが、両面ともに比較的ていねいに加工されている。
 
32 掻器(椎名崎町 木戸作遺跡出土)(二―二〇図3)
 市内椎名崎町八九一番地(字木戸作)より発見されたもので、出土の地点・層位及び状態が確認されている唯一の資料である。
 昭和四十七年十一月五日、本市史編纂のため、市内東南部地区の考古学的資料の収集を行ったなかで、同所近在の椎名崎貝塚の踏査の際に、その貝塚の北側の切通しとなった道路の南側壁面に本資料を発見した。
 資料の出土層位は、地表下約一二〇センチメートル、ローム層上面より約九〇センチメートルの深さの所で、立川ローム層中から、本体の約四分の一を露出させていた。
 そして、残る部分の埋没状態から見て、道路開削時あるいはそれ以後の混入ではないことを確認し、ここを木戸作遺跡と命名した。
 資料は、最大長三五・一ミリメートル、最大幅三四・五ミリメートル、最大厚一三・四ミリメートルで横断面三角形の剥片で、打撃面より先端にゆくにしたがって薄くなってゆく。刃部の整形は主要剥離面ではまったく見られず、背面の先端及び一側縁において見られ、サイド=スクレイパー(側縁を刃として使用したもの)、もしくはエンド=スクレイパー(先端を刃として使用したもの)と見ることができる。
 素材は安山岩質のものである(註15)。
 
 以上に述べた九例のほかに、管見にふれたものが一、二例あるが、いずれも、形態上の疑問と出土状態の確認不能のため割愛した。次に、これらの資料並びに発見地から考えられることを若干あげてみたい。
 まず、第一に、これら資料の発見例が、縄文時代の資料発見例に比べて非常に少ないということがあげられよう。
 これは、考古学全体の中における研究の遅れによることもあげられようが、先土器時代文化の遺物は多く関東ローム層中に埋蔵されており、地表での観察では、その遺跡の発見がきわめて困難であることがあげられるであろう。千葉市のように、貝塚が非常に多いという地域の中で、考古学的関心の中心が縄文時代の研究に注がれてきたのはやむを得ないことであろう。
 第二に、出土状態が確認されて採集されたものは三例のみで、他はいずれも表面採集によるものである。それとて、先土器文化の研究を目的として実施された発掘調査ではなく、したがって、正規の発掘によって得られた資料は皆無であると言えよう。
 この理由も、第一にあげたものに共通するであろう。縄文文化を探求する発掘は、ローム層上面で終了し、その目的を達成することができる。
 そのため、ローム層中に埋蔵される先土器文化の遺物の発見は他の事由によらざるを得ず、したがって、その発見も非常に遇然性が高くなり、出土状態などの付随する資料を得ることができなくなっているという状況を現出している。
 第三に、資料の発見地が、市域北半部への扁在が著しいことがあげられよう。
 これは、市域北半部において考古学の全般的調査・研究が進んでいると同時に、この地域における土木工事などによる関東ローム層の破壊が進んでいることによる点が大きいであろう。
 第四に、資料についてであるが、その九例の内訳は、有茎尖頭器三、木葉型尖頭器三、剥片石器三となる。剥片石器を除くほかは、いずれも尖頭器類で槍先に使用したものと考えられるが、すべて小型の部類に属している。これは、洪積世より沖積世への自然環境の変化に伴って出現してきた小型獣類の狩猟に使用したものと考えられる。このことは、「これらの資料が、はっきりと旧石器時代の遺産である。」ということに対して疑問を生じさせることになり、中石器時代、あるいは縄文時代初頭草創期のものとされる可能性も否定することはできないであろう。
 が、いずれにせよ現状においてこれらの資料を「先土器時代の遺産」の範疇に含めることは許されるであろう。
 以上のような点から、千葉市においても、縄文時代以前の人類の活動が存在したことは確認されたと言えよう。そして、その研究は現在その緒についたと言ってよく、その詳細については、今後の考古学的調査、研究にまたねばならない。

(宍倉昭一郎)


 【脚註】
  1. 大山柏「日本旧石器文化存否研究」『史前学雑誌』四巻五・六代冊、昭和八年
  2. 相沢忠洋『岩宿の発見』昭和四四年
  3. 県立千葉高等学校生徒採集
  4. 県立千葉東高等学校教諭佐野誠鑑定
  5. 古内茂「高品第二遺跡」『京葉』昭和四八年
  6. 千葉市立高等学校生徒日暮晃一採集
  7. 註4に同じ。
  8. 真下高幸「車坂遺跡」『京葉』昭和四八年
  9. 種田斎吾「兼坂遺跡」『京葉』昭和四八年
  10. 江崎武「千葉市加曽利発見の有舌尖頭器」『金鈴』一九号、昭和四一年
  11. 千葉市立高等学校社会研究クラブ歴史班蔵
  12. 註4に同じ。
  13. 千葉市立高等学校生徒日暮晃一採集
  14. 註4に同じ。
  15. 註4に同じ。