遺跡総数と時期的変遷

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 これまでに行われた縄文時代の遺跡の分布調査で、市域全体に及び、しかも遺跡全般を網羅したものとしては、『千葉市誌』の収録「千葉市附近縄文式時代遺蹟地名表(註19)」と、「千葉県石器時代遺跡地名表(註20)」とがあげられる(註21)。双方とも、ほぼ同一の資料にもとづいていると見られるが、前者では六七カ所、後者では九四カ所(旧山武郡土気町の分を含む)の遺跡があげられている。
 今回の集計は、それらを基礎として、その後行われた千葉市加曽利貝塚博物館及び千葉市立高等学校社会研究クラブ歴史班の調査資料を加え、更に若干の調査資料を合わせて、全体的に検討を加えたものである(註22)。
 その結果、千葉市内の縄文時代の遺跡は二〇五カ所を数える。その内訳は二―六表のとおりである。
 まず、はじめに検討しておかなければならないのは、「貝塚」と「包含地」とを、どのように区別するかという点にある。これは、現在、遺跡を類別する用語として、一応の区別はされているのであるが、その区別の厳密な画線はあいまいになっている。つまり、包含地とされていても、その範囲内に、ごく小規模でありながらも貝層堆積を有する遺跡があり、「貝塚」とされていても、小規模なものである場合、その周囲に未確認の一連の広大な包含地が展開している場合のあるこ とが予想されることである。
 この点については、一応、現在までの調査によって判明しているものについて、貝層堆積が、ほぼその遺跡の主体を占めていると考えられる遺跡を「貝塚」とし、そうでない遺跡を「包含地」とした。
 この二―六表及び二―七表を見ると、まず二―六表の遺跡の総数と、二―七表の各時期別遺跡総数の和とが一致していないことに気付くであろう。これは、二―七表においては、縄文時代を五期に分けた各時期の、二ないし三以上の時期にわたって形成された遺跡が、各時期において、それぞれ数えられているからである。したがって、この各時期別の遺跡数は、いわば、各時期ごとの「遺跡形成度数」とも言うことができるであろう(註23)。
2―6表 千葉市の縄文時代遺跡数
貝塚  83(40.5%)
包含地  122(59.5%)
総数  205

2―7表 千葉市の縄文時代の時期別遺跡数・貝塚形成率
時期早期前期中期後期晩期
貝塚1311436111
包含地151558796
282610114017
貝塚形成率46.4%42.3%42.5%43.6%64.7%

 そこで、二―七表における各時期別の遺跡数の変化を見ていくと、早期・前期と、あまり変化のなかったものが、中期に入ると一挙に四倍近くに増加し、更に、後期に至っては、六倍に達することを指摘しなければならない。
 このような遺跡数の増加は、早・前期と、中・後期の時間的長さの相違も考慮しなければならないであろうが、やはり、中・後期における縄文時代人の活動が、急激に活発化したことを示しているであろう。あるいは人口の急増ということも考えられるであろう。
 これは、千葉市における縄文文化の最盛期が、中期・後期にあることを示すものであろうが、更に広く縄文文化の変遷過程の中において見た場合にも、前期から中期への変換期に、何らかの大きな、社会的・文化的変化のあったことを示しているであろう。
 そして、晩期になると、急激に減少することは何を意味しているであろうか。このような変化が、全国的な傾向であるか否か、また、何に起因するものであるかは未だに解明されていないが、このことは、単に千葉市内の問題にとどまらず、全国的な縄文時代史の解明にとって、非常に重要な課題であると言えよう。
 次に、各時期ごとに、形成された遺跡数の中における貝塚の占める比率(貝塚形成率)を見ると、二―七表下欄のようになる。
 これを見ると、晩期のほかは、いずれも四〇~四五パーセントの間に集中しており、ほぼ一定の比率を保っていると言うことができよう。
 また、市内の縄文時代の全遺跡二〇五ヵ所中に占める貝塚の比率も、八三ヵ所、四〇・五パーセントとやはり同様の傾向を示している。
 一方、晩期では六四・七パーセントと急増して、貝塚と包含地の比率がほかの四時期と逆転しているが、晩期の遺物を出土する貝塚の場合、後期の貝塚の範囲の一部に部分的に見られる場合が多く、実際に晩期の時期に貝層堆積が形成されたかどうかという点については非常に大きな疑問を残している。
 もっとも、この問題は、ほかの時期の貝塚の場合にも、主として表面採集の資料を基礎としているために、同様の疑問を生じてくるのであるが、現在の段階ではやむを得ないもので、将来への課題として残されるであろう。
 更に検討を加えるならば、遺跡の規模をも考慮しなければならないであろうが、貝塚形成率が、各時期を通して、ほぼ一定しているということは、当時の、主として漁撈活動をとりまく、生産活動の上において、何らかの傾向があったものと考えてよいであろう。
 それは、水系を中心とした、自然環境の傾向である可能性も考えられる。