水系と遺跡の形成

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 それでは、これらの遺跡の平面的な分布状況にはどのような傾向が見られるであろうか。
 まず、縄文時代の全遺跡の分布の状況を見ると(二―二五図参照)東京湾岸に多く、内陸部(勝田川流域及び鹿島川流域)にはきわめて少ないことがあげられよう。

2―25図 縄文時代の遺跡分布図(全時期)

 これは、さきに述べたように、市内の遺跡の分布調査が東京湾の沿岸から進められたことと、内陸部には、山林となっているところが多く、遺跡の発見を困難にしていることなどに起因しているであろう。今回は割愛せざるを得なかった、市教育委員会社会教育課文化財係による調査資料の中には、これを補う部分がかなりふくまれている。
 そのような中にあって、明らかに鹿島川の渓谷に臨んで立地する遺跡が十数カ所発見されている。
 その中の金親町荒立貝塚、同太田貝塚、野呂町野呂山田貝塚の三カ所は、いずれも後期を中心とした貝塚であることは注目すべきであろう。
 すなわち、これらの貝塚の形成をうながすこととなった漁撈活動の基盤が、鹿島川の水系にあったか、それとも都川の水系にあったか、意見の分かれるところである。
 つまり、これらの貝塚が、いずれも、鹿島川水系の谷に面しているとは言うものの、その反対がわ一~二キロメートルの所には都川水系の谷が入ってきているのである。
 この点について、昭和三十一年に、野呂山田貝塚の発掘調査を行った川戸彰は、鹿島川水系に属する貝塚の調査例である印旛村石神台(東)貝塚や、佐倉市遠部台貝塚の場合と比較して、出土する貝類の鹹度の状態から、野呂山田貝塚を形成する基盤となった水系は都川にあったと推定している(註24)。
 これらの貝塚の漁撈活動の基盤がいずれの水系にあったにせよ、このような位置に立地する遺跡であるということは、鹿島川からは印旛沼を経て利根川につながり、都川はそのまま東京湾につながっているということから、双方からの縄文人の往来やそれに伴う文化の交流などの影響を受けていることは想像に難くなく、縄文時代の関東地方を二分する東関東系利根川流域と、西関東系東京湾沿岸の両文化圏の関係を解明する上で重要な存在であると言うことができよう。
 しかも、それらの貝塚の中には、荒立貝塚のように、環状を呈するほどに貝塚の形成が発達しているということは、環状貝塚の立地を考える上に、非常に重要な問題を含んでいると言えよう。
 更に、いずれも後期を中心に形成されており、中には、野呂山田貝塚のように、晩期にまでつながっているものもある。
 また、印旛沼につながる水系としては、ほかに勝田川(新川を経て印旛沼へつながる)があるが、その流域では、宇那谷町に宇那谷包含地があげられるが、その実態は明らかにされていない。
 次にあげられるのは、土気地区の二遺跡である。一方は包含地(大椎町大椎遺跡)、他は貝塚(小食土町辰ケ台貝塚)であるが、いずれも縄文時代前期の遺跡である点に注目しなければならないであろう。
 これらの遺跡は、市内でもっとも高い標高の場所(約九五メートル)にあり、鹿島川及び村田川の最上流域にあたると共に太平洋岸(九十九里浜)に近いという地理的条件を有していることなど、少数ながらも重要な遺跡と言うことができよう。
 なかでも、小食土町辰ケ台貝塚が、そのような環境の中で貝塚を形成しているという事実は、その基盤となった水系や、地理的・文化的環境の問題を、慎重に検討する必要を生み出していると言えよう。
 また、村田川流域を中心とした遺跡の検討については、中・下流域のほとんどが、市原市域に属しているため、資料の収集が不十分であるのでここでは詳述することをさけたい。
 一方、市内の縄文時代遺跡のほとんどが分布している東京湾に注ぐ水系においても、遺跡の分布は一様でなく、その粗密はいくつかの傾向を示している。
 まず、東京湾に直接面して立地している遺跡はほとんどないことがあげられよう。とくに、都川以北では皆無と言ってよく、椿森町から登戸町、稲毛町へかけての台地、稲毛町北部から検見川町へかけての台地、幕張町北部から習志野市鷺沼町へかけての各台地上では、直接、東京湾に面して、海岸線(埋立て以前の自然地形の海岸線をさす。以下同じ)間近に迫って台地が展開しているが、その台地上の東京湾に面する側の一キロメートルの範囲内には、まったく遺跡の形成が見られていない。
 都川以南では、遺跡の形成が、以北のそれに比べて、若干、西へ伸びてきているが、今井町狐塚貝塚を除いては、やはり、東京湾に直接面する位置に立地する遺跡はなく、たとえ、どのように小さな湾入であっても、樹枝状に開析された谷に面して立地している。
 狐塚貝塚でも、北から南へ伸びる小さな舌状台地の先端に所在したと伝えられるのみで、その立地する舌状台地も幅百メートル前後という非常に狭小な台地であり、事前調査も行われないままに採土のために消滅してしまったので、貝塚の立地の詳細については不明である。
 このような現象を発生させた原因は、直接の居住環境を規定する微地形的環境であろう。
 つまり、東京湾に直面する台地において、その直面する側の斜面は、いずれも非常に急峻な斜面で、崖となっている部分が今日では非常に多い。これは、縄文時代人の居住の場である集落と、漁撈活動の場である海岸とを結びつける通路としては不適当であり、その通路は比較的緩斜面である他の場所に求められていることは容易に考えられ、それに便利な位置に集落は立地していると考えられる。
 また、海からの強風を避けるという点からも同様の立地が選択されるであろう。
 更に、都川以北の台地では、それを開析する河川が少なく、それぞれの台地がかなり広汎な台地となっていることに対し、都川以南では、小河川でありながらも、比較的こまかく台地を開析しているという相違点があげられよう。
 広汎な、しかも斜面が急峻な台地は、飲料水を自然湧水に求めざるを得なかったであろう当時としては、集落の立地としては不適当な場所であったであろう。
 この差違が、都川以南の台地における集落の東京湾岸への進出を促しているものと考えられる。
 また、そこに縄文時代人の生活、集落の立地のうえにおいて、小支谷(谷津(やつ))のもつ重要性を見ることができるであろう。
 次いで、そのような状態の東京湾岸から一歩内陸へ入ると遺跡の形成が急激に多くなることがあげられよう。
 つまり、海岸線からの直線距離で、二~四キロメートルの範囲のなかに、半数以上の遺跡が集中して立地していることである。
 この範囲の中には、北から花見川中流域、宮野木本谷中流域、葭川本谷・同廿五里(つうへいじ)支谷の上流域、都川仁戸名支谷全流域、泉谷津などが含まれ、各河川におけるこれらの部分は、いずれも、その河川の中で、もっとも遺跡の多い地域になっている。
 このことは、この地域の微地形的環境が集落の立地に適していることを示しているであろう。
 それは、小支谷が発達して、その緩斜面は谷底への通路を提供することとなって、飲料水の確保・漁撈活動の基点を、保証することとなる一方、海水の進入はあったとしても、おだやかな干潟となって貝類の成育を促し、その採集を容易ならしめ、外海(と言っても東京湾であるが)の影響をやわらげて、居住環境を一層好適なものとしているからであろう。
 また、漁撈活動にかなりの比重をおく集落においては、その居住する集落と海との関係における利点と難点の調和に苦心していることが考えられるであろう。そして、その調和の上に集落の立地が選定され、集落が形成されたものと考えられる。