貝塚町貝塚群

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 このような中で、葭川本谷と都川下流域にはさまれた地域、すなわち東寺山台地、高品台地、貝塚台地、都町台地西半部に、遺跡の分布が集中していることが見られる。
 この地域では、昭和四十五~四十六年にかけて、日暮晃一(当時千葉市立高校生徒)による綿密な分布調査が行われているため(註25)、このような傾向が出ているということも考えられるが、それ以前に発見された遺跡をとりあげて見ても同様の傾向をうかがうことができる。
 その中でも、貝塚台地に立地する「貝塚町貝塚群」を中心として、西側の高品台地から東南側の都町台地にかけての地域に分布する一連の遺跡は、単に密集しているのみならず、その変遷や、個々の遺跡の特性という点で非常に重要な意味を含んでいると考えられる。
 この地域の遺跡分布の状況は二―二六図に見られるとおりであるが、中でも貝塚町貝塚群は、葭川の支流である高品支谷と荒屋敷支谷とにはさまれて、幅(東西)約五百メートル、長さ(南北)約千五百メートルの北から南へ伸びる台地(貝塚台地)が、更に東西から入り込む小支谷によって、小部分に分割された一つ一つの台地上に、それぞれ縄文時代の遺跡が立地しているというほど、遺跡が密集している所である。古くから、台門貝塚、荒屋敷貝塚、荒屋敷西貝塚、草刈場貝塚の四大貝塚が近接して立地していることが注目されていたが、新たに、荒屋敷北遺跡、草刈場南貝塚、新堀込西遺跡、新堀込東遺跡などが発見され、それらを加えて、貝塚町貝塚群と呼称している。

2―26図 貝塚町周辺地域における遺跡分布の変遷

 その西側、高品支谷をはさんで、高品台地が、多少、形態や突出の方向を変化させながらも、貝塚台地とほぼ並行している。
 この高品台地の東側の縁辺部(高品支谷をはさんで貝塚台地と対峙する)は、貝塚台地と同様に小支谷が台地を刻み、三つの平坦部に分かれている。その、それぞれの台地上に南から東田貝塚、貝塚向遺跡、駒形遺跡(高品第二遺跡)が立地している。このほかに、本台地上には高品西遺跡ほか二遺跡が立地している。
 更に、この西側には、廿五里支谷をはさんで東寺山台地が展開しており、東寺山貝塚を初めとする多くの遺跡が立地している。
 ひるがえって、貝塚台地の東側を見ると、荒屋敷支谷をはさんで、桜木町の広汎な台地が広がり、その東縁には加曽利貝塚が立地している。この台地上における遺跡はあまり多くなく、荒屋敷貝塚の対岸に姥ケ作貝塚(破壊・痕跡のみを確認)があるのみである。
 この台地の南西部は、小支谷による比較的複雑な、開析が行われており、それらの谷によって刻まれた台地上に、車坂遺跡、木戸場貝塚、延命寺東方遺跡(仮称)、兼坂遺跡、向の台貝塚、辺田遺跡などが立地している。
 また、貝塚台地から高品台地の南側にかけて、東から西へ向って下内(しもうち)台地が突出して、都川と葭川の流域を分けている。この下内台地の南西端部に宝導寺台貝塚が立地している。
 以上、略述したように貝塚町貝塚群を中心とした地域が遺跡の一大密集地域となっている。
 そこで、これらの遺跡の変遷を、貝塚町貝塚群を中心として見ることにしたい。
 まず、概観的に遺跡の特徴を見ていくと、貝塚台地上の遺跡は大規模な環状貝塚を形成していることに対して、高品台地上の遺跡は貝塚の形成という点については全く貧弱である。それが、その西側の東寺山台地へ行くと、また数カ所の環状貝塚が見られるというように、同時代の遺跡が、同様な環境の中に形成されながらも、高品台地上の遺跡が貝塚を形成していないという点は、どのように解釈すべきであろうかという疑問があげられる。
 更に時代の範囲を広げて見てゆくと、貝塚台地においては、縄文時代の遺跡の発達の著しさに比べて、弥生時代・古墳時代の遺跡の発達は非常に貧弱であるが、高品台地から東寺山台地へ向うにしたがって弥生時代以後の遺跡の発達が顕著になっていくという傾向をつかむことができる。
 また、貝塚台地の東を見ても、古墳時代の集落遺跡や古墳の分布が展開しているのである。
 次に、縄文時代の中におけるこれらの遺跡の変遷を見てゆきたい。
 まず、早期には(二―二六図右上)遺跡の形成が少ないのは全市的傾向であるが、貝塚台地・高品台地・東寺山台地のいずれにおいても、台地の東側縁辺部に立地している点があげられよう。
 東側縁辺部ということは、西方の東京湾に対して、背を向けるような位置に立地していることになる。
 それらの中で、高品台地の東縁にならぶ三遺跡が特に注目される。それらの中で、東田貝塚のみが貝塚を形成していることは、この遺跡が台地の南端であることによって海とのつながりを保ちつつ形成されたと見てよいであろう。
 ところが、東田貝塚は早期のみで断絶し、次の前期へつながってゆくのはほかの二遺跡、すなわち貝塚向遺跡と駒形遺跡だけとなっている。
 前期になると(二―二六図右上)貝塚台地の西縁に荒屋敷西貝塚、下内台地の基部に木戸場貝塚南西端に宝導寺台貝塚などの貝塚が形成されてくる。一方、包含地では、前記の二遺跡に加えて車坂遺跡、加曽利中北方遺跡(仮称)、延命寺東方遺跡が出現する。
 この貝塚を形成している遺跡と、形成していない遺跡との間に非常に興味ある結果が出てきている。
 つまり、貝塚を形成している遺跡においては、その主体となる土器が荒屋敷西貝塚では諸磯式(註26)、木戸場貝塚においても同様諸磯b式(註27)と、いずれも西関東系の土器が主体となっているのに対し、貝塚を形成していない遺跡、駒形遺跡(註28)・貝塚向遺跡・車坂遺跡(註29)・延命寺東方遺跡・加曽利中北方遺跡(註30)においては、すべて浮島式が主体となっていることである。
 浮島式土器は、西関東系の諸磯b式土器に併行して、利根川流域を中心に分布する東関東系の土器とされており(註31)、千葉市加曽利貝塚博物館による昭和四十三年の宝導寺台貝塚の発掘の際の出土が千葉市域における初見であり、駒形遺跡や車坂遺跡においても、発掘によって確認されている(註32)。
 このように、ほぼ同時期の東関東系土器と西関東系土器とが共存しているということは、千葉市以北の東京湾沿岸地域に共通して見られ、この地域が、縄文時代における東関東系文化と西関東系文化の接触地帯にあたっているという点で、今後の研究の上で非常に重要な地域であると言えよう。
 そして、この浮島式を主体とする遺跡が貝塚を形成していないという点についてはどのように考えればよいであろうか。
 このような遺跡について、昭和四十六年三月に、船橋市古和田台遺跡が調査されている(註33)。しかし、この遺跡からも、浮島式を主体とする集落遺跡でありながら、貝塚の形成を全くもっていないという結果が得られた。この点について、報告者は「貝塚の形成には好適な環境でなくなっていたとみなければならないであろう。」と、「環境」をその原因とみている。
 しかし、千葉市における、この貝塚町貝塚群の周囲においては、同一時期の遺跡が、同一の水系の中にあって、相対峙する位置にあるとはいうものの同一の立地をもっているのであるから、環境の変化からこのちがいを生じたとは言えなくなってくるであろう。
 この点をはっきりと示すものに、貝塚町車坂遺跡の調査例があげられる(註34)。この遺跡は包含地であるが、諸磯系土器と浮島系土器とが共存している中で、小型竪穴遺構の中にわずかに形成された貝層堆積(ブロック)に伴って発見されたのは、諸磯b式と見ることができる。
 このように同一遺跡内において、このような結果を生じている点は見逃すことができないであろう。
 となると、このちがいを生ぜしめたものは何に起因するかということになり、慎重に検討しなければならない重要な問題となるが、あるいは生産活動の相違、あるいは生活様式・文化の相違、というようなことも考えられるであろう。
 ところが、一方都町宝導寺台貝塚では、貝層中から諸磯系土器と浮島系土器とが混在して出土し、しかも浮島系土器が主体を占めているということが観察されている(註35)。
 このようなことを考慮に入れてゆくと、更に問題が複雑になってくるが、本貝塚の場合、台地上の集落に伴う貝塚でなく、海岸の波打ち際に形成された貝塚であろうという点も考慮されねばならないであろう。
 また、諸磯式に伴う住居址はその存在が確認されている(木戸場貝塚(註36))が、浮島式に伴う住居址は未だに発見されていないというような点も、今後に残された大きな課題であろう。
 このような問題点を含みながらも、中期(二―二六図左上)に入ると、この地域全体に、いっせいに遺跡の形成が展開する。特に、台門貝塚、荒屋敷貝塚、草刈場貝塚、東寺山南貝塚、東寺山貝塚、廿五里南貝塚というような、大貝塚遺跡の本格的な出発点となっていることがうかがわれる。
 そして、それらの遺跡のほとんどは、後期(二―二六図右下)へとひきつがれて、ほぼ全面にわたって遺跡の形成が発達してゆき、ことに貝塚台地では、まさに「余すところなく」という状態になっている。
 そのような中にあって、なお、高品台地と都町台地においては、遺跡の形成が非常に希薄であるという状態が注目される。
 ところが、中・後期においてこのような発達を示した縄文時代人の活動が、晩期(二―二六図左下)に入ると、全く火の消えたようになってしまい、わずかに貝塚台地上に二遺跡を残すのみとなってしまう。
 この二遺跡においても、遺跡形成の中心は後期にあって、晩期における縄文人の活動の形跡はきわめて希薄なものになっている。
 このような現象が何に起因するものであるか、「縄文時代・縄文文化の終末期であるから」と言ってしまえばそれまでであるが、後続する弥生時代との関連も含めて、検討されねばならないであろう。