遺跡の分布

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 以上、「貝塚町貝塚群」という地域をとりあげて、縄文時代人の活動の変遷を概観してきたが、全市域的に見ても、かなり共通した傾向をもっていることがわかる。
 まず早期(二―二七図)では、そのほとんどが、都川以北の市域に集中しており、都川以南にはわずか四遺跡のみが形成されているにすぎない。この時期の集落遺跡のほとんども、都川以北に分布している。

2―27図 縄文早期の遺跡分布図

 それが、前期(二―二八図)になると葭川と都川とにはさまれた地域に集中し、遺跡の形成が、若干南下の傾向を示していることがわかる。

2―28図 縄文前期の遺跡分布図

 それに加えて土気地区の二遺跡が特徴的である。
 また、前期では、前述のとおり、浮島系土器を出土する遺跡が最近の調査でかなり発見されてきており、東関東系文化と西関東系文化との接触地としての重要性を増してきているが、浮島系土器を出土する遺跡として、先にあげたもののほかに、原町北原北遺跡、同渡戸北遺跡、同渡戸西遺跡、源町紅嶽台遺跡(註37)、星久喜町星久喜遺跡(註38)などが確認されてきている。
 中期(二―二九図)になると、分布の中心は前期と同様に葭川・都川間にあるが、都川以南の地域に広く遺跡が展開して南下の傾向を一層強くし、早期とは逆に、葭川以北における遺跡の分布が非常に希薄なものになっている。

2―29図 縄文中期の遺跡分布図

 そして、後期(二―三〇図)になると中期のそれを基礎として、一段と濃密な状態で全市域に展開し、新たに市域の西南端である村田川の北岸の一支谷であるところの、有吉町泉谷津の周辺に分布の中心が現れている。

2―30図 縄文後期の遺跡分布図

 このように、縄文時代の早期から後期に至る、いわば縄文文化の発展期とも言える時期における遺跡分布の傾向が、市域北部から南下していく傾向にあることは、編文文化の発展過程を考える上で、何らかの手がかりを残していると考えられる。
 ところが後期において、これほどに分布した遺跡が、晩期(二―三一図)に入ると激減してしまうが、全市域に散在するという状況を示し、このことは次の弥生時代へのつながりを考える上で何かを示唆していると見られる。

2―31図 縄文晩期の遺跡分布図

 しかし、千葉市内における晩期の遺跡は、その前半期のものがほとんどで、晩期後半、ましてや終末期の遺跡は発見されていない。

(宍倉昭一郎)


 【脚注】
  1. 放射性同位元素C14の半減期の応用、熱残留地磁気の応用など。
  2. 例えば、加曽利E式、加曽利B式など。
  3. 鎌木義昌「縄文式土器編年表」『日本の考古学Ⅱ(縄文時代)』昭和四〇年
  4. 最近の先土器時代とのつながりの探求のなかから、「早期」の前に「草創期」をおくことが唱えられてきている。
  5. 古代人の残した遺跡の中で、とくに廃棄された貝類の集積されたもの(貝層堆積)を中心とした遺跡をいう。
  6. 「貝塚」に対し、貝類の集積を伴わない遺跡をいう。
  7. 藤田亮策監修『日本考古学辞典』昭和三七年
  8. 伊藤和夫『千葉県石器時代遺跡地名表』昭和三四年
  9. 単なる遺物の発見例としては、明治十年(一八七七)に、千脇八郎兵衛氏による貝塚町「台門貝塚」からの注口土器の発見がある。
  10. 加部厳夫「古器物見聞の記」『好古雑誌』一巻 明治一四年
  11. 八幡一郎「千葉県加曽利貝塚の発掘」『人類学雑誌』三九巻 大正一三年山内清男「下総上本郷貝塚」『人類学雑誌』四三巻 昭和三年
  12. 大山史前学研究所「千葉県千葉郡都村加曽利貝塚調査報告」『史前学雑誌』九巻一号 昭和一二年
  13. 千葉市高校郷土研究部「千葉市都町字向の台貝塚の発掘に就いて」『かつらぎ』復刊号 昭和二二年
  14. 同様の成果をもとにしてほぼ時を同じくして、このほかに、酒詰仲男『日本貝塚地名表』昭和三四年。伊藤和夫『千葉県石器時代遺跡地名表』昭和三四年が発表されている。
  15. 坂月町さら坊貝塚(昭和四一年破壊)、金親町荒立貝塚(昭和四八年破壊)、東寺山町東寺山南貝塚(昭和四八年破壊)などがあげられる。
  16. 宍倉「埋蔵文化財の現状」『第十八次千高教組教研集会報告』昭和四五年
  17. 日本住宅公団さつきが丘団地内の緑地公園として保存されているが、遺跡の自然環境はまったく破壊された。
  18. 日本住宅公団東寺山団地内の公園として保存されるということになっているが、破壊がはなはだしい。
  19. 武田宗久 昭和二八年
  20. 伊藤和夫 昭和三四年
  21. ほかに地名表としては、酒詰仲男(注14に同じ)と、金子浩昌『印旛・手賀沼周辺地域埋蔵文化財調査』(本編)(昭和三六年)中の地名表があげられるが、前者は貝塚のみを取りあげており、後者は印旛沼の水系に関連する遺跡のみであり、共にかたよりがある。
  22. 最近に至って、千葉市教育委員会社会教育課文化財係による調査結果が伝えられてきたが、時日の関係から史料編において集成したい。
  23. 「生活度数」とも考えることができる。
  24. 川戸彰「野呂山田貝塚」『印旛・手賀沼周辺地域埋蔵文化財調査報告』(本編)昭和三六年
  25. 日暮晃一『葭川流域遺跡分布調査概報』(プリント)昭和四六年
  26. 武田宗久「原始社会」『千葉市誌』昭和二八年
  27. 千葉市立加曽利中学校生徒木村久踏査。
  28. 日本大学学生日暮晃一踏査。
  29. 真下高幸「車坂遺跡」『京葉』昭和四八年
  30. 註28と同じ。
  31. 西村正衛「茨城県稲敷郡浮島貝ヶ窪貝塚」『学術研究』第一五号 昭和四一年
  32. 京葉四期文化財調査班『京葉』昭和四八年
  33. 金子浩昌ほか『古和田台遺跡』昭和四八年
  34. 真下高幸 註29に同じ。
  35. 千葉市加曽利貝塚博物館庄司克調査。
  36. 千葉市加曽利貝塚博物館後藤和民踏査。
  37. 以上、日暮晃一踏査。
  38. 柿沼修平「星久喜遺跡」『京葉』昭和四八年