花見川の本谷を約二キロメートルさかのぼった西側の台地(清水作台地)の東縁の斜面をのぼりきった平坦部のはしに所在する(註3)。
貝塚を形成する規模は小さく四~九平方メートル程度であるが、遺物の散布範囲はかなり広汎にわたり、遺跡の規模はそれに伴って広がると考えられる。
遺跡の性格は、発掘調査を実施した例がないために詳細は不明であるが、採集された資料によれば、表裏両面に条痕文を有し、胎土(註4)に植物の繊維を混入している形跡が認められるところから茅山上層式の時期に属するものと見られる。
先の『千葉市誌』によれば、この近辺に、縄文早期の貝塚として屋敷台貝塚の存在が報ぜられている。現在、屋敷町は習志野市に編入されており、同町内の住宅地の中に貝塚が一部残存しているが、そこからは縄文後期の遺物が採集され、前記『千葉市誌』掲載の屋敷台貝塚とは考えられず、現在、その屋敷台貝塚の存在は再確認されておらず、また、本清水作貝塚との関係も確認されていない。
そのような中での本貝塚は、長作町所在の長作城山貝塚とともに、花見川右岸の数少ない縄文早期の遺跡として重要であると考える。