Ⅳ 鳥込(とりばみ)貝塚とその周辺(小中台町字鳥込所在)

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 鳥込貝塚は、日本住宅公団西小中台団地の敷地の東半部にあたる部分の台地上に所在した。現在、その一角に「鳥込貝塚を保存する」という土壇状の公園があるが、往時の姿はしのぶべくもない(註6)。
 この近辺は、かつては小中台町字鳥込(とりばみ)と称し、稲毛町において東京湾へ注ぐ宮野木本谷を約一・五キロさかのぼり、園生支谷をわけた後更に一キロ程さかのぼった所の北側の台地である。この宮野木本谷に直面する側は、急峻な斜面であるが、本貝塚の西側を回って北側にかけて入る小支谷は、比較的緩やかな斜面で台地へ上ることができる。この小支谷によって、本貝塚の立地は、舌状台地上に形成されていることになる。
 本貝塚の規模・形状は、全く把握されないまま破壊されたため不明であるが、破壊途上の観察によって、ほぼ、この舌状台地上全面にわたっていると見られた。
 更に、本貝塚の北東約百メートルのあたりに、鳥込東貝塚と呼ばれる同時期の貝塚があったが、これも同時に破壊された。
 この鳥込東貝塚の更に北東二百メートルほどの地点で、近年宅地造成が行われたが、それに先だつ発掘調査によって鳥喰東遺跡(註7)として確認・命名された遺跡が所在した。
 この鳥喰東遺跡と、鳥込東貝塚との間は、すでに宅地化か進んでいるために確認は困難であるか、宅地の間にわずかに残る畑では、なお土器片などの採集もあり、鳥込貝塚から鳥喰東遺跡にかけては本質においては連続する一遺跡であると考えられる。しかし、鳥込貝塚から鳥喰東遺跡へ至る間に、しだいに貝塚を形成することがすくなくなっていっており、これは、同一遺跡であったとしても、その間の変化は注目に値するであろう。
 しかも、いずれの遺跡を見ても、縄文早期後半の茅山式期に属するものと見られ、かかる時期に、このように大規模な遺跡が形成されたことの意義の深さを考えると、十分な調査も行われずに破壊されたことが、かえすがえすも惜しまれる。