本遺跡の発掘は、昭和四十四年三月に千葉市立高校社会研究クラブ歴史班によって実施された。
そのときの発掘面積は約二百平方メートルと小規模であったが、縄文早期の炉穴(註10)を一一基発見した。これらは出土土器などにより、更に細かく分析すべく検討中である。
更に、周辺の断面には住居址の存在も確認された。
出土した土器はほとんどが小破片で、数量もあまり多くはないが、中に、縄文早期初頭の井草式から夏島式、稲荷台式といった早期前半の土器が確認されたことは特筆すべきであろう。それまでの、千葉市内における発掘調査で確認された土器は、田戸上層式を上限としてそれをさかのぼるものは発見されていなかった(註11)。また最近の調査によって、この種の土器の発見も報じられており(註12)、また、分布調査による採集例も増加しつつあり、市内における早期前半の様相もしだいにあきらかにされつつある段階に近づいている。
2―33図 小中台町・向原遺跡出土の土器片(1―6夏島式,7.8井草式)
本遺跡と園生支谷をはさんだ対岸に、小支谷が北へ向って入っているが、その谷頭付近に、やはり縄文早期の東の上西貝塚の存在が報じられているが(註13)、再確認されていない。
また、本遺跡は、園生支谷の宮野木本谷との分岐点を中心に、鳥込貝塚とまったく対称的な位置関係にある点について、その比較において非常に重要な問題を含んでいると考えられる。
すなわち、同一水系に立地し、南岸と北岸の違いはありながらも同様な位置にあり、しかもほぼ同一の時代に営なまれていながら、鳥込貝塚では大規模な貝塚が形成されているのに対し、向原遺跡ではほとんど貝塚を形成していないという違いに代表される相違点など、これが、単に南岸と北岸という違いからのみ生じたものであるか、今後の検討をまたねばならない。