Ⅰ 谷津台貝塚(小中台町五六三番地所在(字谷津台))

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 本貝塚は、宮野木本谷と園生支谷とにはさまれた台地(小中台台地)の西端の小台地(谷津台)の北縁に立地する。標高二六メートル、比高約一八メートルを数える。
 宮野木本谷をはさんで鳥込貝塚と対峙する。この宮野木本谷に面する斜面は急峻であるが、貝塚の東側へ北から回り込む浅い谷は比較的ゆるやかな斜面となっている。
 ごくわずかな傾斜をもった台地上の畑が、崖線より急峻な斜面の山林へ変わろうとする所にあって、年々貝層の流失が見られるとのことであった。
 貝殻の散布する範囲は、約七〇平方メートルにわたってみられるが、原堆積の状態を維持している貝層はわずか一〇平方メートルにすぎなかった。
 土地所有者の言によると、「五~六年前(昭和四十四年当時から数える)の梅雨のころに、千葉大の先生と生徒が来て半日くらい掘って行った。」ということであるが、これは、昭和二十九年六月のジェラード=グロート、篠遠喜彦らによる発掘(註1)に該当すると思われる。貝層の攪乱部分の多いのはそのためと見られる。このときの調査資料は、当時市川市にあった、グロートの主宰する「日本考古学研究所」に収容されたと思われるが、その後、同研究所が閉鎖されたあとの資料の所在は確認されていない。また、そのときの発掘調査の記録も公表されていない。
 その後、昭和四十四年に、千葉市立高等学校社会研究クラブ歴史班による発掘調査が実施された。
 このときの発掘は、残された貝層堆積の一部、約九平方メートルを対象として行われた。その結果、本貝塚は、縄文時代前期の関山式土器の時期に形成されたことが確認された。また、貝層堆積の下端は、地表面より約四〇~五〇センチメートルの間隔を維持し、貝層堆積の外部における遺物の出土も同様の傾向を維持しているところから当時の地表面と想定することができた。

2―34図 小中台町・谷津台貝塚出土の土器片(関山式)

 この貝層堆積及び貝殻散布範囲の中には住居址を発見することはできなかった。