本遺跡の確認は、昭和四十五年に、千葉市加曽利貝塚博物館と、千葉市立高等学校社会研究クラブとによって相次いで行われた。そのときに、縄文時代前期の遺跡として確認され、しかも採集された土器片の中には、縄文時代前期後半の東関東(利根川流域)を中心に盛行した浮島式土器の破片が相当量含まれていることが判明した。これは、千葉市域におけるこの種の資料の最初のものであった。
2―35図 高品町・駒形遺跡採集の土器片(浮島式系)
本遺跡は、その後昭和四十七年に、京葉道路第四期工事の路線にあたるため、「千葉県都市公社京葉四期文化財調査班」によって「破壊」を前提とした発掘がその一部において実施され(註2)、おおむね、前記と同様の結果を得たが、住居址は縄文時代中期のものなど二基を発見したにとどまっている。
したがって、縄文時代の遺跡としての形成時期は、中期に中心があるようだが、前述のように、前期の遺跡として、浮島式土器などの東関東系土器を出土するという特記すべき点があるのでここにとりあげた。
また、本遺跡と同じく京葉道路にかかる遺跡として発掘された遺跡の中で、貝塚町の「車坂遺跡(註3)」もほぼ同様の結果を示している。この遺跡においても、このような前期の東関東系の土器を伴う住居址は発見されていない。