昭和四十三年、道路建設工事のため、このテラス状の南端部が削られ断面に貝層が露出した。このため、同年十二月十一日から約二カ月間にわたり加曽利貝塚博物館によって発掘調査が行われ、南北に設定した四×二〇メートルの試掘溝内より縄文時代前期から後期にかけての遺物と多量の貝類が発見された。遺跡のあるテラスは標高八~八・五メートルで、この下の水田面は標高六~六・五メートル、また台地上は、標高一六~一七・五メートルを測る。なお、台地上一帯は千葉県知事公舎の敷地になっている。
調査時の所見から、本遺跡の概略を述べると、発見当初すでに遺跡表面は地表より二メートル前後けずりとられており、貝塚の上層部の状況は明確でないが、北側に残されたテラスの断面には、表土下約〇・六メートルにハマグリを主とする純貝層が確認された。また、試掘溝内における貝層の厚さは、約二メートルを測り、テラスの断面に現れた貝層の上部から試掘溝最下部までの貝層の厚さは、約二・五~三メートルを数える。
このように本貝塚における貝層の厚さは、縄文中・後期の馬蹄形貝塚のように非常に厚いが、その堆積状態は、馬蹄形貝塚のようにブロック状堆積を示さず、帯状に堆積する場合が多い。しかも、この貝層はところどころに鉄サビ状に、酸化鉄の付着したような、赤茶けた貝層がみられ、貝塚形成時に長期間にわたり、海水につかっていたような形跡がある。
遺溝は未発見であるが、馬蹄形貝塚同様に、貝層中に焚火あととみられる焼土と灰の堆積があちこちにあった。
遺物は、人工遺物では、土器・石器、また自然遺物では、貝類のほかに獣骨類も発見されている。
土器は量的には僅少であり、完形品は一点もない。しかし、出土土器は数型式にわたっており、貝塚の形成は、前期中葉から中期末にかけてほぼ間断なく営なまれたものと考えられる。主体をなす土器は、いわゆる浮島式土器である。浮島式土器はⅠ式・Ⅱ式・Ⅲ式に、分類されているが、この遺跡からはそのいずれもが出土しており、これらは市内における前期後半の好資料である。このほかには、黒浜式、諸磯b式、下小野式、阿玉台式、勝坂式、加曽利E式などがみられ、また少量ではあるが興津式、五領カ台式に相当すると考えられるものもある。
2―37図 都町・宝導寺台貝塚出土の土器片
(1~3黒浜式,4関山式,5・6諸磯b式,7~11浮島式,12下小野式)
石器は、総数六一点が出土した。これは、下総台地における同時期の遺跡からの出土例としては多い方である。うちわけは、すり石二一、くぼみ石一六、たたき石四、石皿二、砥石一、軽石製品一、多孔石一、打製石器一、用途不明八である。ほかに、軽石、黒耀石片、メノウ礫片などや自然石が出土した。
土製品では土錘六点、貝製品では貝輪の未成品一点が出土している。
昭和四十三年の調査結果によればこの貝塚の最下層は海成の砂層で、そのレベルはいわゆる前期海進による海水面ぎりぎり、あるいはそれ以下に位置し、この周辺は、当時の海岸線(砂浜)であったと思われる。したがって、貝層が帯状に細長いのも、海水の満ち干きによって、ブロック状に捨てられた貝層がならされたものであろう。また、貝層や出土遺物にみられる鉄さびのような赤茶げた付着物なども同様の現象の所産と考えられよう。
本貝塚は、このような立地条件や、遺物の出土状況などからして、集落遺跡とは考え難く、むしろ集落に付随した露営地(ウォーク・キャンプ)もしくは、貝採集のための舟着場や海岸における貝のむきみづくり作業場とも考えられる(註9)。