このように、直接つながる水系としては、村田川の最上流域になるのであるが、それを下って東京湾に至るには、直線距離にしても約一五キロメートルの隔りがある。一方、太平洋がわ(九十九里浜)は、急峻な崖にかこまれてはいるものの、現汀線までは約一三キロメートルであるが、三キロメートルでその海岸砂丘の低地に達するのである。
このことは、本貝塚の貝層堆積が、九十九里浜を基礎として形成されたという見方を強くするものである。
本貝塚の発掘調査は、昭和四十年に実施されたが、このときの調査でははっきりとした貝層を把えることはできなかった。しかし、混土貝層においては、ハマグリを中心とし、カキ、ハイガイ、アサリなどがそれに次いでいた。また、魚骨が多く検出されたことに対して獣骨がきわめて少ないという特徴が把えられた。
土器では関山式土器を出土する縄文前期の貝塚である(註10)。
このような立地・特徴・時代から、東京湾沿岸に比較して非常に数の少ない太平洋沿岸に形成された貝塚として非常に重要な位置を占めているといえよう。
(宍倉昭一郎)
【脚註】
- 伊藤和夫 『千葉県石器時代遺跡地名表』昭和三四年
- 古内茂 「高品第二遺跡」『京葉』昭和四八年
- 真下高幸 「車坂遺跡」『京葉』昭和四八年
- 本項2 「縄文時代の遺跡の分布」を参照されたい。
- 千葉市教育委員会、今井公子踏査。
- 武田宗久 「原始社会」『千葉市誌』昭和二八年
- 千葉市加曽利貝塚博物館、後藤和民踏査。
- 千葉市立加曽利中学校生徒、木村久踏査。
- 本貝塚については千葉市加曽利貝塚博物館、庄司克執筆。
- 県史編纂係長、川戸彰踏査。