Ⅰ すすき山遺跡(源町すすき山所在―湮滅)

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 この遺跡は、葭川(よしがわ)本谷と廿五里(つうへいじ)支谷との間の小支谷の最奥部西側の舌状台地上に位置する。この台地は東西二二〇メートル、南北最大一七〇メートルをはかり、先端のやや開いた形で、東寺山台地に向って突出している。遺跡はその基部の狭少な鞍部に展開しており、標高二八メートル前後、水田面との比高は一二メートルをはかる。現在は住宅地となっている。

2―38図 すすき山遺跡の地形及び住居址展開図

 昭和四十四年の夏、千葉市源町土地区画整理組合の宅地造成にともない、加曽利貝塚博物館が計画地区内の遺跡分布調査を行った際、新たに発見した遺跡である。緑地公園として保存することを再三要請したが受け入れられず、結局、緊急発掘を行うことになった。調査は昭和四十五年五月より十月まで、千葉市教育委員会によって行われ、加曽利貝塚博物館が担当した。この調査報告は、近く刊行の予定なので、ここでは、ごく概略だけを記しておく。
 結局、通称「すすき山」と呼ばれる、この東西に細長い舌状台地上には、平安時代の方形周溝状遺構群と、縄文時代の中期終末・加曽利EⅢ式期の集落址とが複合して存在していた。前者については、第三節「古墳時代」の項で述べるので、ここでは触れない。
 縄文中期の集落は、すすき山台地の基部、県道に面する直径九〇メートルの範囲に、合計一一基の竪穴住居址が環状に展開していた。その住居址は、ほとんどが楕円形を呈し、その規模も、最大の8号住居址(長径六・七、短径六メートル)と最小の9号住居址(長径四、短径三・六メートル)との間にある。中央に直径〇・五~〇・九メートルの炉を備え、それを囲んで四~八本の柱穴を穿っている。これらのうち、四戸の住居址が、その内外に貯蔵穴を伴っており、しかも五戸の住居址が、床面上に直径一メートル前後の貝のブロック状堆積を伴っていた。それはキサゴを主体とし、ハマグリ・シオフキ・アサリなどを含んでおり、その量はきわめて少ない。

2―39図 すすき山遺跡の住居址出土状態

 これらの住居址の分布をみると(二―三八図)主に台地の北側及び南側縁辺部に展開しており、台地の中央尾根部には、住居址も貯蔵穴状ピットも、そして土器片などの遺物さえ乏しかった。しかも、住居址一一戸中、七戸までが北側縁辺に集中し、南側縁辺には、わずかに三戸しか発見されなかった。なお中央平坦部から、もっとも大型の8号住居址が発見され、しかもこれだけが隅丸方形を呈していた。そして、これらの住居址のほかに、不明な大小のピット群が五カ所に発見されており、その上部の表土が削除されていることから、あるいは、更に数個の住居址が存在した可能性がある。特に、今回の発掘区域は造成される舌状台地部だけであるが、県道をへだてて西側の民家敷地や畑にも、中期の土器が散在している。この集落の規模は更に西側に拡大される可能性が大きい。
 しかし、この発掘調査によって、この住居址がほとんど加曽利EⅢ式という同時期のものでありながら、その半数が、点在する小規模な貝層を伴い、残る半数が伴っていないことが判明した。しかも、10号及び11号住居址は重複していたので、この集落の存続期間を、前後二つの時期に分けることができる。すると、この集落における同時存在の住居址は、この台地先端部においてはたかだか五、六軒であったということになる。このような事実は、当時の集落の規模や形態、あるいは構造等、今後の集落研究に重要な示唆を与えるものである。
 なお、この遺跡の周辺には、小支谷をへだてて、廿五里貝塚や東寺山貝塚など、同じ中期に属しながら、大型の馬蹄形貝塚を伴う集落が約一キロメートル内外の距離に存在しているのである。この大型貝塚を伴う集落と、小型貝塚しか伴わない集落との関係を究明することは、当時の社会構造を知る上でも重要な鍵となるであろう。