葭川(よしがわ)本谷より分岐した廿五里(つうへいじ)支谷の奥部に当たり、その東側台地上の縁辺、廿五里支谷に面して立地している。標高二九メートル、比高約一五メートルをはかる。この遺跡の北側は急な断崖をなし、南側は中世館城の堀割りによって、すでにその地形の旧状を失っている。現状は一部が畑、一部が宅地、その大半は殿山ガーデンの敷地になっている。
貝層部は、直径約百メートルの範囲に、二つの孤状に連らなった貝層の堆積群が、南北に向い合って、全体が馬蹄形を呈する。その北側の堆積群は幅三〇メートル、長さ百メートルの半月をえがいて大きく、南側の堆積群は、その西半が馬場の敷地によって削平され、その規模はわからない。開口部は北西と東南にあるが、ゆるやかな谷頭に面している東南の方が、支谷との出入口であったと思われる。
この遺跡の調査歴はほとんど不明であって、本格的な発掘やその報告はまだ知られていない。おそらく昭和四十七年三月、千葉市立高等学校の社会研究クラブ歴史班による小発掘が唯一のものであろう。この調査によって、縄文中期の竪穴住居址一基と、その中に投入された貝層中から、甕かぶりの人骨が一体発見されている。
このとき発見された住居址は、五・六×四・七メートルの隅丸長方形で、むしろ三味線の胴鼓状を呈する。四隅に柱穴があり、その間を結ぶ線から内側が一段低くなっており、その中央には炉がない。なお、四本の柱穴から周壁の四隅に向って幅の狭い帯状の仕切りがあり、また、南側の周壁には、出入口と思われる階段状のはり出しがついている。その上、この住居址の所属時期は阿玉台式と加曽利EⅠ式との中間にあるという。
このような構造をもつ住居址は、千葉県下においては、まだ知られていない。中央に炉がないことは、阿玉台式住居址に共通するが、その他の構造は加曽利EⅠ式にもみられない。これは中期初頭の過渡的な住居形態であるというよりは、むしろ貯蔵庫など、住居以外の機能をもつ施設だったと思われる。
なお、この竪穴の床面上には、それが廃棄されたのちに投入された貝が、レンズ状に堆積しており、その中間の時期において、下の貝層を掘り上げて、一体の人骨が埋葬されていた。この人骨は、左下横臥の形で屈葬され、頭部には、加曽利EⅠ式の深鉢がかぶせられていた。そしてこの人骨の下からは、貝輪が発見されている。なお調査に立会った早稲田大学の金子浩昌によると、この人骨は熟年の女性であるという(註)。
その他出土遺物は、石器では、打製及び磨製の石斧九個と浮石・石棒片・たたき石など、それに黒耀石及びチャート製の石鏃が一九本も発見されている。土器類は阿玉台式及び加曽利EⅠの古式(プレEⅠとか原加曽利E式という)が大多数を占めていた。その他、ハマグリ及びカガミガイ製の貝刃多数と、アカニシ製の貝輪数個が出土している。
更に、自然遺物としては、イノシシ・ニホンジカ・タヌキ・イヌなどの獣骨や、タロダイ・スズキ・エイ・サメなどの魚骨が検出されている。
なお、現地踏査による表面採集で、後期の掘之内式及び加曽利B式の土器が認められ、後期の土偶なども発見されている。
【脚註】
「廿五里南貝塚発掘調査日誌」千葉市立高校社会研究クラブ歴史班、昭和四七年