なお、東寺山貝塚の南方約三百メートルの、台地尾根部からやや西側の傾斜面に寄った畑地において、地主の豊田誠二がゴボウを掘ったところ、地表面には認められなかった、ハマグリやキシャゴなどの貝類とともに、中期の土器が多数掘り出された。これを千葉市立高校の学生日暮晃一と宍倉昭一郎教諭が発見し、現地のボーリング調査をしたところ、これは阿玉台式及び加曽利EⅠ式を主体とする縄文中期の、点在貝塚を伴う集落であることが予測された。宍倉昭一郎は、早速これに「東寺山南貝塚」と名づけて、県に遺跡発見届を提出した。しかし、その地区は、すでに日本住宅公団の造成区域として買収されており、県の依頼によって、昭和四十七年八月に、東洋大学の玉口時雄が記録保存のための緊急調査を行った。ところが、実際に発掘された区域は、鹿島神社寄りの平坦部約五千平方メートルのみで、問題の点在貝塚が埋没する区域は、全く調査もされず、昭和四十八年三月にブルドーザーで削平してしまった。なお、玉口時雄の発掘した区域は、東寺山貝塚と東寺山南貝塚との中間の位置に当たるが、南貝塚寄りに、袋状ピット(貯蔵穴)を伴う加曽利E式の住居址が三戸ばかり発見された。その他はほとんど古墳時代の鬼高式を中心とする住居址で、それを囲むV字型の溝などが発見された。すなわち、東寺山貝塚と南貝塚との間には、未調査の鹿島神社が介在するとはいえ、指呼の間に隣接しており、両者は同一の集落範囲内に属すると思われる。
しかも、先にもみてきたとおり、東寺山貝塚も縄文中期・加曽利E式期から存続しているとすれば、当然南貝塚と同時期に存在したことになり、片や大型の馬蹄形貝塚を有し、片や小型の点在貝塚しか伴わない集落が、同じ台地上に隣接していたことになるのである。このことは、後で述べる仁戸名町の月の木貝塚とへたの台貝塚、あるいは加曽利北貝塚と東傾斜面などの現象と共通する問題で、この意義を究明するためには、きわめて重要な存在だったのである。