昭和四十三年三月、千葉市加曽利貝塚博物館の手によって、はじめての地形測量調査が行われ、この遺跡の全貌を定着することができた。それによると、貝層部は、直径一八〇メートルの範囲に分布し、南に開口した典型的な馬蹄形を呈する。荒屋敷支谷から西側の台地に向って分岐する二つの小さな谷頭によって刻まれた、舌状台地のぎりぎりいっぱいに拡がり、貝層部の外縁は、その谷頭や支谷に向って流れ込んでいる(二―四〇図)。
2―40図 荒屋敷貝塚の地形測量図
この遺跡は、終戦後間もなく、皇太子殿下をお迎えして、学習院中等部の試掘が行われただけで、本格的な発掘調査の報告はまだ聞かない。にもかかわらず、この遺跡から個人的に掘り出された資料がかなりあるといわれる。たとえば、市内在住の助川寛が所蔵する阿玉台式土器(二―四一図)、増田三男が発見したという堀之内式甕棺(県立千葉高校蔵)などがある。
2―41図 荒屋敷貝塚出土の土器(阿玉台式)<千葉寺町助川寛氏蔵>
なお、博物館の踏査によれば、南側の開口部近くに、阿玉台式期のハマグリの純貝層が厚さ二〇~三〇センチメートル、長さ一〇メートルにわたって露出しており、北側の農家敷地によって切り取られた末端部断面には、キサゴ・ハマグリ・シオフキ・アサリを主体とする純貝層が、一・五~二メートルの厚さで堆積していた。
その他、表面採集による資料は、阿玉台式、勝坂式、加曽利E式及び堀之内Ⅰ式の土器、ニホンジカ・イノシシなどの獣骨、そして貝類はハマグリ・アサリ・シオフキ・キサゴを主体とし、そのほか、カガミガイ・サルボウ・バイ・アカニシ・ツメタガイ・ウミニナ・アラムシロなどが目だっていた。しかし、まだ竪穴住居址などの遺構の発見はなく、石器類の採集もあまり聞かない。
なお、この高品支谷と荒屋敷支谷とに挾まれた舌状台地上には、荒屋敷貝塚の南側に台門貝塚、北側に荒屋敷北貝塚、草刈場南貝塚、及び草刈場貝塚、そして西側には荒屋敷西貝塚という点在及び馬蹄形貝塚を伴う縄文集落が存在している。これらを一括して、「貝塚町貝塚群」と呼ばれているが、このように、幅四~五百メートル、長さ約一キロメートルの、一つの舌状台地に、合計六カ所の貝塚集落が密集しているという事実は、全国でも類例のない特異な現象である。
これらのうち、縄文中期の遺物を出土するのは、荒屋敷貝塚のほかは草刈場貝塚と草刈場南貝塚である。これら三つの貝塚が、はたして別々の集落として独立しながら、同時に存在していたかどうか。それは、実証的資料をもたない現在では決定しがたい。しかし、あまりに接近した位置にあり、しかも、草刈場南貝塚では、点在貝塚のみを伴っていることから、むしろ、草刈場貝塚と草刈場南貝塚とは同一の集落であり、荒屋敷貝塚が大型貝塚を形成していた中期の時点では、草刈場においては点在貝塚を伴う集落が展開していたものと思われる。
いずれにしても、これらの貝塚群の存在は、当時の集落形態や社会構造を解明するための重要な鍵を握っている。これらの遺跡を有機的に研究し得るような、台地全域の保存こそ切に望まれている。