貝層部は、台地平坦部の東端に展開しており、直径一三〇メートルの環状をなす北貝塚と、直径一七〇メートルの馬蹄形をなす南貝塚とが、南北に連らなっている(二―四二図)。
2―42図 加曽利貝塚とその周辺(概念図)
イ 加曽利貝塚博物館 ロ 野外施設(住居群固定保存) ハ 野外施設(貝層断面固定保存) ニ 収蔵庫
加曽利貝塚の名は、すでに明治二十年ごろから学界に知られており(註1)、その貝塚の規模は、「かねて本邦第一と評され」てきた(註2)。大正十一年の大山柏・大給尹らの地形測量(註3)によって、はじめてその全貌がとらえられ、貝層部がメガネ状や8字形という特異な形態を呈することが注目された。しかし、明治年間から大正年間にかけて行われた発掘は、主に人骨の採集を目的とする人類学的調査が多かった。
大正十三年、東京大学人類学教室による本格的な層位学的発掘調査によって、南貝塚のB地点と北貝塚のE地点から、縄文土器の新らしいタイプが、層位的に上下して発見された(註4)。これがのちに、「加曽利B式」及び「加曽利E式」と命名され、前者は縄文後期の中葉に、後者は縄文中期の後半に位置づけられ、以来、日本考古学の編年上の基準として、その名は不動のものとなった(註5)。
以下、この遺跡の縄文中期の集落としての様相を露呈した発掘調査だけを、ここに抽出して、その成果を述べてみよう。
まず昭和三十三年、明治大学考古学研究室による発掘調査があげられる。「主として中期縄文式土器の組合せを調査することに主眼」をおき、大正十三年の発掘時のE地点近くで、分層発掘をした結果、加曽利E式土器は、層位的な上下関係でⅠ式とⅡ式とに分けられることが実証されたという(註6)。
次いで昭和三十七年、この加曾利貝塚が不動産業者によって売買され、早晩破壊される危機に直面し、千葉市教育委員会は武田宗久に委頼して、事前調査を行った。このとき、北貝塚の東北部二カ所で、加曽利E式四戸、堀之内式一戸、加曽利B式一戸、計七戸の竪穴住居址が発見されている。しかも、加曽利B式期の住居址床面上で、折り重なっている五体の人骨が発見された。これは住居址内に埋葬されたものであり、市川市・姥山貝塚における発見人骨群のように、「何等カノ事情ノ為、同時ニ横死セリト見倣ス(註7)」べきであろう。
なお武田宗久によれば、これらの事実は、「一集落のある部分には住居が何世代かにわたって次々と建てられ、ある部分には彼等の墓地があったことを立証している。恐らく一集落内にはこのほかに、例えば集会場、祭祀場、道具の工作場、舟つき場、防塞施設、その他われわれの想像を越える何かが埋蔵されているに違いない」という。
この発掘調査を契機に、加曽利貝塚の保存運動が活発に展開され、北貝塚は「史跡公園」として買収されたが、南貝塚は記録保存のために緊急調査が行われた。すなわち、昭和三十九年八月、加曽利貝塚調査団によって、南貝塚の貝層部を貫通する、幅二メートル、長さ一七〇メートルのトレンチ、合計六本が設定され、ここに未曽有の大発掘が展開されたのである。
このトレンチ内から、縄文中期阿玉台式四戸、加曽利E式四戸、後期の堀之内式一四戸、加曽利B式六戸、安行Ⅰ式一戸、晩期の安行Ⅲb式一戸など、合計三二戸の竪穴住居址が発見された。これらのうち、中期の阿玉台式と加曽利E式の住居址は、貝塚の内側に分布し、特に、北貝塚に大型の馬蹄形貝塚を残した加曽利E式期の住居址床面には、ここでは小規模な点在貝塚を伴っていた。
なお、この緊急調査は、南貝塚の保存運動のため中断され、昭和四十年五月からは、北貝塚における野外施設予定地の予備調査に切りかえられた。以来、昭和四十三年三月までに、北貝塚の西北端と東南端が発掘された。西北端においては、貝層下から加曽利E式期の竪穴住居址一戸と、貝層部内側から貯蔵穴が数基発見され、また、貝層中からは人骨が三体発見された。そして東南端においては、中期の竪穴住居址四戸が発見され、そのうちの加曽利EⅠ式の古式期に属する一戸の竪穴住居址からは、床面上に折り重なる四体の人骨が発見された。これも、不慮の事故死によって、そのまま住居内に埋葬されたものと思われ、ここに類例を増加したことになる(二―八二図)。
2―43図 加曽利北貝塚発見の竪穴住居址群<加曽利貝塚調査団提供>
その他、野外施設への電線埋設工事に伴う予備調査の際、北貝塚の貝層部の外周部を発掘したが、そこにも貝層が埋没しており、その下から、阿玉台式一戸、加曽利EⅠ式一戸の竪穴住居址が出土し、縄文中期の埋葬人骨三体が発見された。そのうちの一体は右下横臥屈葬で、頭部に加曾利EⅠ式の深鉢形土器をかぶせられていた。
更に、昭和四十五年~四十七年にかけて、南貝塚の東側平坦部及び傾斜面において、老人ホーム建設の計画があり、再び緊急調査が行われた。この調査は南貝塚の「遺跡限界確認調査」として、従来考古学界で一度も調査されたことのない貝層部の周辺を対象として発掘された。この結果、南貝塚の東側に隣接する平坦部で、縄文中期の竪穴住居址一〇基(阿玉台式二、加曽利E式八)と、それに伴う貯蔵穴十数口を発見した。しかも、その半数のものが、床面上に小規模な貝層(点在貝塚)を伴っていたのである。なお、そのうちの加曽利E式期の住居には、その貝層の上から改めて墓拡を掘って埋葬され、頭部には土器をかぶせられた屈葬人骨が一体発見されている。
従来、北貝塚は縄文中期に属する貝塚で、当時の集落は、その環状を呈する貝塚の内側にこそ展開していると考えられてきた(註8)。ところが、以上の調査結果からみると、本来、北貝塚の内側にあるはずの縄文中期の住居址が、むしろ、縄文後期に属する南貝塚の周辺など、北貝塚の外側にも数多く広範囲に分布していることが判明した。しかもそれらの住居址群の半数のものが、その床面に点在貝塚を伴っているのである。このように、一つの舌状台地上に、同時期の大型貝塚と小型貝塚とが共存している事実は、果たして、いかなる意義をもつものであろうか。
ちなみに、この北貝塚の西側に展開する畑地にも、縄文中期の土器を伴う点在貝塚が数カ所に分布しており、ボーリングの結果、その下に竪穴住居址の埋蔵されていることが確認されている。縄文時代といっても、果たして当時の集落は、直径一三〇メートルの北貝塚の内側などに包含されるほど狭小なものであったのであろうか。従来の調査の対象外であった貝塚周辺部の調査によって、いまや新しい事実とともに、新らしい観点をもって遺跡を見直すべき時期が到来した。
【脚註】
- 上田英吉「下総国千葉郡介墟記」『東京人類学雑誌』一九号、明治二〇年
- 小田桐健児「下総加曽利貝塚踏査」『人類学雑誌』三〇巻一一号、大正四年
- 大山柏「千葉県千葉郡都村加曽利貝塚調査報告」『史前学雑誌』九巻一号、昭和一二年
- 八幡一郎「千葉県加曽利貝塚の発掘」『人類学雑誌』三九巻四・五・六号、大正一三年
- 山内清男「下総上本郷貝塚」『人類学雑誌』四三巻一〇号、昭和三年
- 芹沢長介「千葉県千葉市加曽利貝塚」『日本考古学年報』11、昭和三七
- 八幡一郎ほか「下総姥山ニ於ケル石器時代遺跡」『東大人類学教室研究報告』五編、昭和七年
- 岡本勇「加曽利貝塚の意義」『考古学研究』一〇巻一号、昭和三八年